2015年5月1日金曜日

当ブログのモチベーション


世の中、楽しいこともあれば辛いこともある。望んだものが手に入る保障などありはしない。当然のことである。
しかしたとえそうだとしても、敢えて強調したいのは「心を患う者にとって、あらゆる不運は拡大するものである」という事実である。

何かの問題に遭遇した時、心が不自由な者はその内的・外的な力の乏しさから不当とも言える苦労を強いられることになる。
ありふれた「些細な問題」も、不自由な心を持つ者には「極めて困難な問題」となるのだ。
さらに、そうした厳しい道のりを「人に応援されていない」という思い(あるいは事実)の中で歩んでゆかなければならない。

その、身を焼かれるような苦しみを私は知ってしまった。
「がんばる意欲」そのものにフタをされ、「最低限の威厳」さえ底をついたギリギリの境遇。
今日も誰かが人知れず踏んばっている。
その事実とその姿が、私の心を離れないのだ。

そこを抜け出す方法が「瞑想」に詰まっている。そのことを伝えたい。
とっつきにくさもあるが、他の何にも勝る効果・意義があるので、生きることが苦しい全ての人に取り組んでもらいたい。


最も苦しかった頃、私には人生が「苦痛・喪失感の塊」にしか感じられなかった。
そんな悲しいことは、あってはならないのだ。
そんな人が一人でも減ればいい。
せめて苦しみが和らいでくれればいい。

その祈りが当ブログのモチベーションだ。
誰か一人の目にでも届けばと願う。



2015年4月11日土曜日

無題


20136月に始めた当ブログを、ひとまず幕引きとしたいと思う。

約1年10か月続けてきた当blogであるが、書きたいこと・書けることをだいたい書き終えたように思う。
うつ病の方が読むことも想定しているので、記事が多くない方がよいとも思っている。

訪問して下さった方々との御縁に感謝したい。
さらに、貴重な時間を割いてコメントまで下さった方々には御礼の言葉もない。
簡素なブログ運営だったが、その醍醐味を味わい、楽しい経験をさせて頂くことができた。

世の中の『生きる苦しさ』を抱えた心が少しでも癒やされ、そしてその全てが健やかに、最大限元気になる日がくることを願って止まない。
お付き合い頂き、どうも有難うございました。

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「考える」生活から「感じる」生活へ


うつ病改善の道のりは自分の身体をしっかり感じなおす道のりだ。
それは、考えごとを最小化する道のりとも言える。

前回述べたが、うつ病では「考えごと」自体が体調悪化の原因になる。
このことは、ほぼあらゆる行為が体調悪化の原因になりうることを意味する。
何らかの「考え」に基づかない行為は殆どないからだ。

なのでうつ病になったら極力、全活動を休止したい。
できる限りスイッチをOFFにしまくる。
「何もしない」をめざし、瞑想的な過ごし方に専念するのだ。

* * * * * * * * * *

瞑想に取り組む上で私が重要だと感じることを改めて記したい。


● 何をするか
深呼吸しながら、
・「今の身体の感覚」を感じる
・「頭に浮んだ場面(過去など)における、その時の身体の感覚」を思い出す
 
● 注意点
1 どの場面を扱うかは思いついたままでよい(神経質になるのが最もよくない)
2 なるべく全身の感覚を「同時に」思い描く
3 「目」に入れていた力の再現を忘れない
4 他者を意識することよる内面の力みも探る
5 深呼吸をキープする

● 解説
・2の「全身を同時に」は慣れてきてからの目標。はじめは一箇所ごとに感じることに慣れることからでOKだし、数か所だけでもよいだろう。ガンバり過ぎないこと。
・3の「目」の力みは見落としやすい。目にどんな力が入るか。何を見ていたか。
・4意識する他者により、内面に生じる感触(力み)の違いにも注目してみる。

(身体を感じるということがピンとこない場合は、スローモーションの記事も参照頂きたい。)


ちなみに上記のワークは健康な人がやってもメリットがある。
内面が整い、集中力や感情バランスなどが改善するはずだ。


* * * * * * * * * *

余談だが、私の考えでは上記を高度に進めていくとブッダが言った「悟り」に通じる。
悟りの境地、それは人間が生まれて物心がつく前、情報による影響をまだ受けていない状態と同じものだと私は思っている。
つまり「悟り」とは先へ進むことではなく、元に戻すことである。

そのように想像の羽根を広げるのは楽しいが、この先を語り尽くすことは私の能力や割ける労力を明らかに超えるため、この辺で切り上げたい。



2015年4月10日金曜日

うつになったら「考えごと」をやめる 2


うつ病になってから、私はいつもコンディションの「変化」に悩んでいた。
何をしたわけでもないのに体調・内面の感触がコロコロ変わる。
常に後手の対応を迫られ、疲弊した日々を過ごしていた。

当時は「なぜ何もしないのにこんなに体調が変動するんだ?」と、戦々恐々と過ごしたが、今にして思えば「何もしないのに変化する」という認識は正確ではない。
本当に何もしていないのなら何かが変わるはずがない。
実際には「問題となる行為」を無自覚のままにしていたのである。
それは、「考えごと」であった。

これまで再三にわたって「うつ病では自らの身体感覚に無頓着なのがダメ」と述べてきた。
実はその身体感覚の無視の多くは、「考えごと」の最中に自動的に生じているものだ。
考えごとをするだけで、意識は身体感覚から離れる
前回述べたように、考えごとは基本的に「視点を他者に移す=主体を明け渡す」行為であり、その内容の健全さに関係なく身体感覚の受け止めを希薄にさせる方向に働く。

うつ病などの回復が難しいのは、「考えごと」の危険性が認識されていないからだと私は思う。
うつ病になっても当然それまで同様、思うがまま「考えごと」くらいする。当たり前である。
しかし、実はそうしながら無意識に自らの病気に燃料を注いでいるのである。
これは恐ろしい事実だ。
ついでに言えば、病気の不調により「心配」という「考えごと」が増大しているのだ。

「身体の感覚を感じ取る」よう心がける時間を増やそう。それにより自動的に考えごとも減るので心配いらない。
ただ差しあたり「考えごとの危険性」を認識しておいてほしい。
それはあまりに私たちにとって身近なものである。
そしてそれは私たちをあまりにもたやすく「身体感覚の無視」状態へ導くということを、病人はゆめゆめ忘れてはならない。
そのことの理解が、様々な場面で生きてくる。



2015年4月3日金曜日

うつになったら「考えごと」をやめる 1


うつ病になったら「考えごと」を極力やめなければならない。
「良くない・ムダな考えごとを」ではなく「考えごと全般、考えごとそのものを」である。

話の順序として、まず「考えごと」はどんな姿なのか考えてみたい。

まず形としては、「考えごと」というものはムービーに限りなく近い形態をしていると思う。淡い映像音声のようなもので認識されているはずだ。

そして内容については、それらは自分以外の誰かの見解や思惑を追いかけるものが多いのではないだろうか。個人差があるとは思うが、かなりの頻度で「他者の内面を想像」していないだろうか。

「他者」の範囲は、友人や知人、果ては会ったこともない者・架空の人物にまで及ぶ。
「私の考えごとの主人公は私だろう」というのは思い込みであり、われわれの内面は想像以上に他者の気持ちへと遠征しがちなのだ。

健康な人にとってみれば、それは問題ない行為だ。
しかし考えごとは本来、上記のように「主体を明け渡す」という側面が強い行為である。
この点をうつ病患者はよく認識しておく必要がある。

つづく。



2015年3月27日金曜日

Babies cry


職場の隣が小児科のクリニックになっていて、仕事中しばしば子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。
「漏れ聞こえてくる」よりも「思いきり響いてくる」という表現が正しいか。
注射や医者を恐れて泣きわめいているのだ。
もはや半狂乱の子もおり、仕方がないこととは言え可哀想に思う。

かつてそれについて、「そんな恐ろしい思いをして、精神に影響はないのだろうか?」と思ったことがある。(心の問題を長年抱える私は、「ストレス」について考察する癖がある。)

その子供達は、事情を知るこちらでも耳を塞ぎたくなるほどの声で、自分を守ってくれない親をも非難しながら、まさに絶体絶命の危機を訴えている。
人間が「泣き叫ぶ」ことなど滅多にあるものではない。
もちろん子供の世界ではありふれたことかもしれないが、ともかく私自身が「泣き叫ぶほどのストレス」に今直面したら、自分がどうなってしまうのか想像がつかない。

しかしそのような子供達が(注射などを恐れたことによって)人格形成に異常をきたしたという話は無論聞かない。

思うに、「泣き叫んでいるからこそよいのだろう。
大きな恐怖ではあるが、それを拒絶し、相手を罵倒し、人目はばからず全身で抵抗する、そうやって「我慢していない」から大丈夫なのだ。

「拒絶する意志」を手放すことが危ない。
ストレスは、それに「堪え始める」ところから強力に発動する
どんなストレスかといった内容よりも、そこがポイントだと思う。

その子供達にも、いつしか注射をされても泣かない日がくる。
みんな泣いてないから僕も泣かない、など当人達が「納得」を得ながら自主的に乗り越えていく。

世の中で、そういう「納得」が常に得られるのならありがたい。
しかし現実は腑に落ちぬまま堪えねばならないことが少なくなく、注射のような単発ではない、反復的・長期の試練も多い。


「忍耐」には美徳の側面があるが、思い切って放棄することも、時にとても重要だ
大人だって、キャパシティの限界がきたら声を上げて叫ぶべきだ。
いざという時に「我慢」を放棄する勇気さえ持てば、「苦境」というものもさほど怖くないのかも知れない。


2015年3月20日金曜日


私達の奥底にある『健やかに生きよう』とする火は決して消えない。
その火こそ、私達の存在そのものである。

ボロボロになっても、そこを抜け出すきっかけに気づくセンスが失われることはない。
私達の根元は「機会の到来」を、いつまでも、伏せながらでも待つ。
最小の準備が整えば、必ずやそれを土台に立ち上がり、力強く歩き出す。


「私を守り生かす」という任務を、私の根本は投げ出さなかった。
一見すべてを放棄したかに見えた、苦痛と恐怖に屈した日。
その日のそれらも、苦痛は私へのシグナル、恐怖は私をそれ以上ムチャな道へ進ませぬための障壁として用意された、自らの適応力の産物であった。
粛々と任務は遂行されていた。


人は壊れない。
抜け道が見えにくい状況があるだけである。
混乱が一定まで収まれば、心身は自ずから「正しい一手」を打ち始める。
感性が向上し、快適な方へ向かえる日が必ずくる。

燃え続ける火を信頼し、時にはすべて忘れて休むといい。
自分の本来の強さを信じるのである。


2015年3月16日月曜日

通勤スタイル制服化


何というわけではないのだが、通勤用の靴。
REGALの、紐タイプの810RAL(上)と、モンクストラップの813RAL(下)。


仕事ではこの2足を交替で使用している。同シリーズのものなので、木型というかフォルムが一緒だ。

REGAL に特別の思い入れはないが、どこでも手に入るので便利だ。くり返し同じものを買い直し、ユニフォームのように迷わない運用ができる。
本来は1足でも構わないのだが、2足以上を履き回すとそれぞれ長持ちするらしいのでそうしている。デザインが紐とストラップと異なるため、区別や交代がしやすい。
Minimalist(ミニマリスト:最小主義者)という極限まで物を持たない生き方をWebなどで見かける。
激しく惹かれるものがあるが、私にはちょっと無理そうである。しかしそこまでは無理でも、モノを減らすことはうつ対策に有効であるので心がけたいと思っている。(凝り過ぎて執着にならないよう要注意。)


ついでに言うと私は服装も3種類で、月曜から水曜まで服装A→B→Cときたら、また木曜から土曜までA→B→Cだ。
服装にうるさくない環境なのをいいことに、始めはネクタイをしていたのがシャツだけになり、ついにはクルーネックのニットだけ、というカジュアルな上半身になってしまった。
締め付けがどうにもガマンならず、もうネクタイなどできない体になってしまったような気がする。社会人としていかがなものかとも思うが、「迷わない&締めつけない」が私の体調管理には不可欠なので、差し当たりよしとしている。



2015年3月13日金曜日

近況


ここ何日か、うつ症状が本当に発症初期のころに似ている。

・後頭部や首、こめかみの痛み方
・腹部の、分断したような違和感
・思考の散らばり方


昔はパニクったが、今はベテランなので当時とは違う対処をしている。

いろいろな感触を経験してきたが、初期の頃のそれらに近頃のがとても近い。
症状は一旦最も深刻なところまで進み、そこから引き返すようにして逆の症状をたどりながら改善するように感じる。
このまま始めのところまで戻っていき、入ってきた所から抜け出せたら嬉しい。
予想したとおりには進みにくいものなので、過剰な期待はしないつもりだ。



2015年3月10日火曜日

ストレッチ 


ストレッチを軽く長時間すると心の健康にもいい。

物理的によく伸ばすことは重視しない。
それを重視すると、伸ばしている部位を物体として外から眺めてしまうような感じになる。
そうすると、部位と気持ちとの間に感覚的に距離ができてしまう。

そうではなく、反対に自分の気持ちと肉体の繋がりを強めるように、感触を「感じ取る」ようにする。
落ち着いて、ゆっくり気持ちよく伸ばす。
その快さと満足感をしっかり味わう。
どれくらい伸ばすかは問題ではない。


身体の「各部分」。
それを感じようとする意志。
それらをしっかり持つようにすると、心は自然により健康へと向かっていく。


2015年3月6日金曜日

アンナ・カレーニナ


すべての幸福な家庭は互いに似ている。

不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。

(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』より)


幸福な家庭とはどういうものだろうか。
思うに家庭には「落ち着く場所」であることが最も求められ、それさえ満たされていれば差しあたりOKではないだろうか。
ささやかでも当たり前なことが満たされ、「落ち着ける場」として機能している家庭に対し、それ以上の何を求めようか。

不幸な家庭が多様に見える理由は、私達がそれらを隅々まで見るからである。
どうすればああならずに済むか、自分のうちと比べてどうか、防衛本能に命じられて注意深く目を走らせたため、自ずと様々な点が目に入るのだ。

すべての幸福な家庭は互いに似ている。
それ以上の細かいところを見る必要がないから。
不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。
それぞれの仕方をちゃんと見たから。

幸福はムードに、不幸は事実の細部に宿る。
本来それらは同じ次元で扱うべきではない。
敢えてそれらを対比させた冒頭の言葉は、いたずらに人の不安や悲観を誘う、意地の悪いものだ。


家庭のことに限らず、ベーシックな幸福にはいつも同じことが言えるのではないだろうか。
何かと比べたりせず細かいところについて考えもしない、「何気なく」こちらの求めに応じているものこそが、いつも幸せをつくっている気がする。

「幸福とは何か」と敢えて考え始めた時、私はきっと疲れている。
そんな時はクヨクヨ考えるのをやめて、自分の感覚に委ねたい。

おそらく全ての幸福は互いに似ている。


2015年3月2日月曜日

スマホを握る手


携帯(スマホ)を持つとき、手首を捻っている。

調べ物などでずっと握っていると、
手首の角度をキープする力で、肘から先がいろいろ疲れる。



2015年2月27日金曜日

損傷はない


私がうつ病になったのは、例えば脳の損傷などの外科的要因によってではない。

私がこれまでの人生でやってきたことは

① 見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・運動する、など「肉体を使うこと」
② 「考える」こと

の2つだけであるから、そのやり方のどこかを間違えたことによってうつ病になったと言える。

どこを間違えたかと言えばいつも述べるように「身体感覚」の扱い方であるが、ここでは
「少しの加減で生じた問題は、少しの加減で解消できる」という点を強調したい。
損傷はない。
大事件ばかりを経てきたわけでもない。
答えは案外、近くの地味なところにあるのだ。

うつ病は「簡単に改善できる」といった安易な表現は使いたくないが、それでも大袈裟に考え過ぎたり、改善のためにとても特別なものが必要だと思ったりはすべきでないと言いたい。




2015年2月24日火曜日

瞑想は量から


瞑想の、質よりも量を心がける。
それが時に大切である。

もちろん、質はとても重要。
だが、をこなさないことには質が上がらないようになっている。

だからまずは量からだ。



2015年2月20日金曜日

うつ始めの失敗


2005年の夏にうつ病を発症したので、今年の夏が来れば10周年だ。
ヴィパッサナー瞑想を知ったのは、たしか2013年の2月。
それからちょうど2年ほど経つ。


うつになった最初は、とにかく「ボーっと」した。
頭の中にモヤがかかったように、感覚がすべて曖昧になった。
思考力や記憶力も、壊滅的に役に立たない。
その状況に対する危機感さえ淡く、それもまた恐ろしく、動転するばかりだった。

どうにかしたいと考えて試したのは、以下のような力業だ。
・ 息を長時間止め、その苦しさで自分を刺激
・ 現在や過去の思い出深いシーンを力いっぱい思い出す
・ 目の前のものを、気合を入れてじっと見る
・ 身体のあちこちに思い切り力を入れてみる  …etc

いずれも内面に力まかせに感覚を刻みつけることでボンヤリ感を吹き飛ばそうという試みであったが、結論から言えばこういうのは全部だめだ。
単なる危険行為である。

これらの暴挙によるダメージが、そこから続く多大な苦痛のベースとなった。
いつもしつこく言うが、うつ病においては「力み」はすべてNGなのである。

やってはいけないことを、むしろしたくなってしまうところも、うつ病の怖さの1つ。
ヤケクソな手法はどれも控えるべきだ。
「できないことはできないままでいい」と早期に割り切り、とにかく静かに過ごすのが正しい。

「何とかしよう」と思わない方がずっとマシであること気付き、その考えに沿って過ごすよう努力できるようになるまで、私は実に多くの犠牲を払ってしまった。




瞑想生活


活動の合間に瞑想するのではなく、

瞑想しながら社会生活をする。


瞑想する時間を増やすだけでなく
生活そのものを瞑想的にしたい。

どんな行動も

力まずに集中して
納得しながら
ゆっくり
深呼吸しつつ
身体のムーブメントを感じながら

そのように行えば、あらゆる行動は瞑想的になる。



2015年2月13日金曜日

無題(仏教)


少し気になること。

当ブログの、仏教に関する記事について。
このブログでは時々、仏教の世界観や教義などに対して「意味は無い」だの「関係ない」だの言っている。
あくまで「心」や「人間」を正しく捉えようとした結果、そうなっている。

そんな中、やはりふと仏教の歴史の重さを思うことがある。
膨大な時のなか、どれだけの人間がすがり、信仰してきたか。
その事実は果てしなく尊い。
そのように人が祈り心の支えにしてきたものを否定するのは、苦々しくもある

仏教の意義を否定したり挑戦しようとしているわけではない。むしろこの上なく尊いものとして、ある意味で親愛の情すら抱いている。

それはそれとして、私は自らの心身とひたすら真摯に向き合いたいのである。




2015年2月6日金曜日

不親切


日々瞑想で心の在りようを眺めるなか、些細な気づきを重要な発見のように感じることのなんと多いことか。

本能である。
前進したと思いたい欲求。
何かが片付いたと思いたい欲求。

結果を求めすぎている。

結果を求めすぎると、過程の検証は疎かになる。
「私を成功に導いたもの」を無条件最終回答に認定し、それで終わりにしてしまう。

何かを多くの人と共有するには、その共有されるものはなるべく単純で、偶然や飛躍が排除されたものである必要がある。
ハイレベルな知力やセンスや幸運、特殊な前提などを必要とするものは扱いにくい。


「扱いにくい」ままの不親切なものが世間には多い。
何かの方法でうつ病が良くなっても、同じやり方で良くならない人がいる理由を明らかにしなければ50点だ。
他の要素が関連していないか。
余計なところはないか。
そういった姿勢とプロセスが、「本質」への道を開いていく。





2015年1月30日金曜日

普通


「自分だけが取り残される焦り」にとらわれたことがある。
私がうつ病でノロノロしている間に同級生などは経験を重ね、年相応なものを身に付けながら活躍していく。
そんなイメージが頭から離れないのだ。
実際のところ、うつ病になりさえしなければ自分が望む全てを手に入れたかと言えば、無論そんなことはないだろう。
これが相応というものか、そう思ったりする日もある。
とは言え、調子を大きく崩した日などは「この病さえ無ければ」「あの生い立ちさえ無ければ」といった、悔しさや嫉妬や不満に悶えるのである。

ああ、俺はいつまでこんなふうなんだ…
病気を治し、さらに遅れを取り戻すなんて、ここからどれだけ登らなきゃならないんだ…



こうした苦悶は、しかしやがて減っていった。
世の中が案外「普通」のことで回っていると理解したからかもしれない。

どんなに立派そうなことも「普通」の積み重ねで形成されている。
ほぼあらゆる場所において、「普通」の実行よりも優れた働きはない。

また、自分は病気なんだから、何かができない・苦しい、というのもまあ普通だ。
イヤな状況だが、何も不思議なことやスゴイことは起こっていない。

なんと言うか、私はそもそもすべてのことを大それたことのように捉えすぎてきたようだ。
それを闘病期間を通して学んだ気がする。

たしかにこの世界には、自分が守られているという保証などありはしない。
けれども、大部分は「普通」の範疇・法則で回っていて、メチャクチャとまでは言えない。
そうである。
多くの部分が「普通」に回っているからこそ、こんなにたくさんの人間が生きていられるのだ。

私は世界が案外地味に回っていると悟ってから、自分は自分、地に足を付けて頑張っていこう、という気持ちを強く持てるようになった。




土台


一時的な環境などにより偶然うつになったような、アクシデント的なケース。
それに対し、「もともと”うつ“だった人格」が満を持して発症したようなケース。

「うつ病を数か月で治しました」といった話は前者に関することだと思う。
後者のタイプの人間にとっては、あまり参考にならない。

土台が違うのだろうが、そこをゴッチャにして論じられていることが多い気がする。



2015年1月23日金曜日

鈍い痛みの怖さ


うつ病の身体の痛みが、激しい時期と鈍い時期があった。
激しい時期はつらいものだが、病気の状態自体は浅いのではないだろうか。

始めの半年くらい、頭・首・腰などがとても激しく痛んだ。
パンパンに突っ張ったり、キリキリしたり、痺れたり。

その後に沈静化して鈍痛になり、それが何年も続いた。
顔が歪むほどの痛みはなくなり、生活はしやすくなった。

しかしこの鈍痛の方が不穏である。
角が取れたのは良いが、そのせいであちこちに転がりやすくなったような、抜け出しにくい手強さを感じる。

鈍化したら、良くなったのではなく複雑化したのかもしない。
変に落ち着いてしまった、厄介な状態であるように思う。



2015年1月16日金曜日

現在から遡る


心の構造に変化が起こると、その影響によって思考や行動パターンにも変化が生じる。
そのパターンは反復によって強化されていく。つまり新たな癖のようになっていく。
例えば、何かの経験を機に卑屈になると、その後「卑屈な習慣」を重ねることで卑屈さを強めていく、そんな様なことである。

このような「こじらせ」のプロセスにおいては、段階を重ねていくほどに最初の原因の意味は薄れていく。
「最初のトラウマ」ではなく、その後の「習慣」が言わば第2・第3の元凶となって影響力を行使していくのである。
最初のきっかけを突きとめても生き方が戻らないのはそのためだ。
そして、心の問題というのは残念ながら、その多くが「こじらせ」の先で状況が複雑・深刻化したあとに自覚されるものである。


省みるべきは、出発点よりもまずは「最近の習慣」だ。
自分を縛るラスボスは、代替わりを繰り返しながらずっとそばにいるのである。
元凶が始点に居座っているイメージは捨てなければならない。

過去を探るよりも、直近のものから順に、折り重なった心のクセを解いていくのが正しい。
いまの自分の感じ方」にまず注目し、「おかしいと感じる」習慣をやめてみる。
うまく状況が好転するのは、そこから始めた時である。
「今」は常に、「自分が最も向き合うべき問題」に触れられる最先端・最重要の場所である。



2015年1月9日金曜日

剣道


体調がもう少し良くなったら剣道をしたい。
小2~高3の頃にやっていたので、もう20年近く間が空いたことになる。

大人になってから剣道を再開することをリバ剣(=リバイバル剣道)というそうだ。
剣道には『筋力の強化』以外にも強くなるための方法がたくさんあるので、体力がピークを過ぎた年齢でも楽しめる。


筋力以外の要素


剣道における、『筋力』以外の要素とはどういったものか。

たとえば、『相手が技を出してくる』瞬間。
これはピンチなようで実は大きなチャンスだ。
相手は打つことで頭がいっぱい&飛び出してしまっているので、防御に手が回りにくい。つまりかなり無防備なのだ。
その瞬間をついて、相手の面を打つ。

遅れて出ながら相手に先んじることは可能である。
それを成功させる要素は、大きく2つある。

1つは、後れが生む距離の節約だ。
相手が飛んできているということは、こちらに近づいているということ。
その分こちらは短い距離を飛べばよいことになる。
短い距離をコンパクトに打ち込むことで、相手に先んじる。

もう1つは、機会の把握だ。
短い距離を飛ぶとは言え、タイミングを見誤ればやはり先に打たれてしまう。
「相手が次の瞬間にくる」と察知していることが重要だ。
あくまで機会を正しくとらえ、十分な備えで打つことが求められる。
この『機会の把握』については勘に頼るのではなく

・相手を焦らせ、迂闊に飛び出させる
(人は圧力に屈すると待てなくなり、攻撃は最大の防御とばかりに飛び出してくる)
・相手に、「隙がありそうだから、いま打てばいけるんじゃないか?」と誤解させる

など、こちらからの働きかけによって『相手を動かす』ことで機会を生み出す。
つまり相手の攻撃の機会を演出するのだ。
そのように相手の動きの予測の確度を上げる工夫をする。


剣道は、こうした技を打つ前の準備=技前(わざまえ)の探求がおもしろい
人間の反応というのは場面ごとに本当に無数にあり、そこを研究していくと、やるべきこと・やってはいけないことが分かってくる。

ラクにきれいに技を決めるための戦術を見つけ、使い物になるまで試行錯誤する。
それを積み上げて『流れ』の作り方に長けてくると、腕力がなくても勝てるようになるはずだ。


3K


ある程度習熟した世界には小手先で通用する手はなくなり、どうしても人の心理とそれにともなう動作の考察が必要になる。
そこに足を踏み入れれば、そこから先の奥は深く、工夫の余地が尽きることはないように思える。


剣道は3Kと言われる。くさい、汚い、厳しい、だ。
くさい…たしかに。防具を使うスポーツが臭うのは仕方ない。ちなみに今は洗える防具もある。
汚い…これも防具を洗わないことが多いからか。だがそもそも人間なんて雑菌の塊だ。
厳しい…何のスポーツも厳しかろう…。

汗もにおいもキライ、な子猫ちゃんではないのである。
稽古のあと、その辺で水浴びでもしとけばいい。野武士のように。
ロマンだ。


おわりに


剣道に心惹かれつつ、その醍醐味を十分に味わうための体調・気力の回復がまだ不十分だ。

剣道再開は夢である。



2015年1月2日金曜日

歪みの増え方


「歪み」が、次の「歪み」を呼ぶ


「心」は頭や胸(ハート)にではなくからだ全体に広がっている。
だから心は、身体の使い方に大きな影響を受ける
心を健康にするには、身体感覚を内側からしっかり感じ、丁寧に向き合う習慣にしておくと良い。
自己の身体感覚をないがしろにて生活していると、しだいに心には歪みが生じてくる。


身体感覚の無視を続ける
   ↓     
「自由度が低い」心に変質する  
 = 思考力や感性の低下
 (具体的には学力や仕事力の低下及び運動神経や人徳のて低下など)
   ↓

何とかしようと頑張る
   ↓  
 
さらに意識が身体感覚から乖離する
   


以上のように、悪循環が起こって『歪み』が増え重なっていくことになる。



全身に同時に波及する「歪み」


また、一つの歪みは、全身の感覚に影響する。
そしてそこへ次の歪みが加わり、その影響がまた全身の感覚を塗り替える。

そのような「刷新の歴史」を繰り返してきた身体感覚が、今現在の「私」という自我である。