2015年2月27日金曜日

損傷はない


私がうつ病になったのは、例えば脳の損傷などの外科的要因によってではない。

私がこれまでの人生でやってきたことは

① 見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・運動する、など「肉体を使うこと」
② 「考える」こと

の2つだけであるから、そのやり方のどこかを間違えたことによってうつ病になったと言える。

どこを間違えたかと言えばいつも述べるように「身体感覚」の扱い方であるが、ここでは
「少しの加減で生じた問題は、少しの加減で解消できる」という点を強調したい。
損傷はない。
大事件ばかりを経てきたわけでもない。
答えは案外、近くの地味なところにあるのだ。

うつ病は「簡単に改善できる」といった安易な表現は使いたくないが、それでも大袈裟に考え過ぎたり、改善のためにとても特別なものが必要だと思ったりはすべきでないと言いたい。




2015年2月24日火曜日

瞑想は量から


瞑想の、質よりも量を心がける。
それが時に大切である。

もちろん、質はとても重要。
だが、をこなさないことには質が上がらないようになっている。

だからまずは量からだ。



2015年2月20日金曜日

うつ始めの失敗


2005年の夏にうつ病を発症したので、今年の夏が来れば10周年だ。
ヴィパッサナー瞑想を知ったのは、たしか2013年の2月。
それからちょうど2年ほど経つ。


うつになった最初は、とにかく「ボーっと」した。
頭の中にモヤがかかったように、感覚がすべて曖昧になった。
思考力や記憶力も、壊滅的に役に立たない。
その状況に対する危機感さえ淡く、それもまた恐ろしく、動転するばかりだった。

どうにかしたいと考えて試したのは、以下のような力業だ。
・ 息を長時間止め、その苦しさで自分を刺激
・ 現在や過去の思い出深いシーンを力いっぱい思い出す
・ 目の前のものを、気合を入れてじっと見る
・ 身体のあちこちに思い切り力を入れてみる  …etc

いずれも内面に力まかせに感覚を刻みつけることでボンヤリ感を吹き飛ばそうという試みであったが、結論から言えばこういうのは全部だめだ。
単なる危険行為である。

これらの暴挙によるダメージが、そこから続く多大な苦痛のベースとなった。
いつもしつこく言うが、うつ病においては「力み」はすべてNGなのである。

やってはいけないことを、むしろしたくなってしまうところも、うつ病の怖さの1つ。
ヤケクソな手法はどれも控えるべきだ。
「できないことはできないままでいい」と早期に割り切り、とにかく静かに過ごすのが正しい。

「何とかしよう」と思わない方がずっとマシであること気付き、その考えに沿って過ごすよう努力できるようになるまで、私は実に多くの犠牲を払ってしまった。




瞑想生活


活動の合間に瞑想するのではなく、

瞑想しながら社会生活をする。


瞑想する時間を増やすだけでなく
生活そのものを瞑想的にしたい。

どんな行動も

力まずに集中して
納得しながら
ゆっくり
深呼吸しつつ
身体のムーブメントを感じながら

そのように行えば、あらゆる行動は瞑想的になる。



2015年2月13日金曜日

無題(仏教)


少し気になること。

当ブログの、仏教に関する記事について。
このブログでは時々、仏教の世界観や教義などに対して「意味は無い」だの「関係ない」だの言っている。
あくまで「心」や「人間」を正しく捉えようとした結果、そうなっている。

そんな中、やはりふと仏教の歴史の重さを思うことがある。
膨大な時のなか、どれだけの人間がすがり、信仰してきたか。
その事実は果てしなく尊い。
そのように人が祈り心の支えにしてきたものを否定するのは、苦々しくもある

仏教の意義を否定したり挑戦しようとしているわけではない。むしろこの上なく尊いものとして、ある意味で親愛の情すら抱いている。

それはそれとして、私は自らの心身とひたすら真摯に向き合いたいのである。




2015年2月6日金曜日

不親切


日々瞑想で心の在りようを眺めるなか、些細な気づきを重要な発見のように感じることのなんと多いことか。

本能である。
前進したと思いたい欲求。
何かが片付いたと思いたい欲求。

結果を求めすぎている。

結果を求めすぎると、過程の検証は疎かになる。
「私を成功に導いたもの」を無条件最終回答に認定し、それで終わりにしてしまう。

何かを多くの人と共有するには、その共有されるものはなるべく単純で、偶然や飛躍が排除されたものである必要がある。
ハイレベルな知力やセンスや幸運、特殊な前提などを必要とするものは扱いにくい。


「扱いにくい」ままの不親切なものが世間には多い。
何かの方法でうつ病が良くなっても、同じやり方で良くならない人がいる理由を明らかにしなければ50点だ。
他の要素が関連していないか。
余計なところはないか。
そういった姿勢とプロセスが、「本質」への道を開いていく。