2014年12月26日金曜日

うつな気分が高まったら


うつ病になって、

気が焦ってしょうがない
やけに苦しい
何もやれる気がしない

という時に私がしてきたのは

1)まず立ち上がる
2)壁によりかかり、深呼吸50回
である。


何かうまいことを自分に言い聞かせようとしても大抵は意味をなさない。

まず、ただ立ち上がる
ゆっくり立つだけ。

次に、深呼吸を始める
息の出入り、腹や胸の動きを感じながらゆっくりと。
吐き出す方を「ふーっ」としっかりやると、リズムがついて集中できる。
「50回するまでは他のことはしない」と決めてやる。

状況を選びはするが、いちばん良かった方法である。
「立つ」ことによって身体に多少の刺激があり、思考のらせんに陥りにくいのがいい。
また真っ直ぐ立つと重力の影響を前後左右に分散させられ、姿勢が楽である。

深呼吸は単純なものだが、それを50回続けることはあまりないはずだ。
やってみれば効果を感じることだろう。
簡単に終わらない回数であれば良いわけで、30回や40回でもいいのかも知れない。


強めの不安に駆られてきたら取り敢えずおもむろに上記をする。
それがおすすめである。



2014年12月19日金曜日

話さない時はいつでも。

 
何日かに一度、仕事で隣町の営業所を回る。
昨日がその日だった。
片道30分、ちょっとしたドライブだ。

車に荷を積んで乗り込めば、それから30分は自分の時間。
冬に固められた田んぼの風景を突っ切る。

交通量は少ない。
携帯に何かかかってくることもあまりない。
エアコンで温まった車内に、身体の下からのエンジン音とタイヤの音だけが響く。


こうした細切れの時間は、リラックスのために最大限活用したい。

シートの上で、肩や腕の高さ・足の伸び・腰の角度などを整える。
視線を前方へ向け深呼吸を続けると、しだいに内面が、心の『力み』や『歪み』を探り始める。


日常を瞑想化することは、きわめて有意義だ。

個別に時間を設けた深い瞑想と、日常を瞑想化した形態の軽い瞑想。
その両輪が必要だ。
人と話さなくてよい時間はすべて瞑想の好機であると私はとらえている。



瞑想の周辺


瞑想そのものでなくとも、瞑想とメカニズム上の共通点を持つと思われるものは色々とある。

皮膚感覚をいきいきさせる乾布摩擦(死語か?)、ゆっくり動く太極拳、使う箇所に意識をとどめやすいゆる体操……etc

何にせよ、身体を感じることが精神によい。

うつ病対策としては激しい運動はNGだ。
一般人のストレス解消のための運動とは、区別しなければならない。

瞑想的にするなら、身体の眠ったところを揺り起こすじがよいだろう。
なるべく全身に意識のスポットライトを当てていき、陰になる部分がなくなるように。



人生「休業中」


うつ病になったら、社会活動は全て「休業」しているつもりで生活すべきだ。
私の名前を「白灰太郎」だとすると、白灰太郎業を全面的に休業中にする。

経済上の理由から止むを得ず働かなければならない場合は、例外的にヘルプでその仕事をしていると考えよう。
家事も同様だ。放棄させてもらえるなら最良、それがムリなら「やりすごす」程度に関わればいいと割り切る。

仕事や家事だけではない。
趣味にさえ手を出さない方が本来は良い。
こだわり等を披露する相手を想定してしまうと、それは社会との関わりになってしまうからだ。

要は、およそ他者との関わりに基づく活動のすべてにおいて、クオリティを追求しないということだ。
高いレベルを始めから自分に課さず、また失敗しても落ち込まないようにすること。

うつ病では、安いプライドにつられて頑張ってはいけない。
自分が「本来」目指すべきことに徹した考えをもつのである。
本来目指すべきことは、言うまでもなく「全面休業」だ。
休めば休むほど良い。

うつ病回復のためには、そのような「社会と距離を置く覚悟」が常に必要になる
人間、たとえ部分的であってもプライドを放棄するのには大きな精神力がいる。
しかし、安い意地を張らずに手を引くことが出来るということは、かなりハイレベルであるとしっかり認識しよう。

「普通の頑張り」が通用しない世界を、「頑張らない力」で乗り切る。
そんなマイナーな戦場で奮闘する人にこそ、エールを送りたいものだ。




2014年12月12日金曜日

運動以外での、身体の力み。


発熱


今月初めに熱を出した。

夜中に上半身が熱くて寝られず、熱を測ってみたところ、38.6℃。
うわ、インフルエンザもらった…と思ったが、しばらくしてもう一度測ったところ37.1℃。
ん?勝手に下がるもんだったか?体の熱さは何となく引いているが…

なんにせよ早めに医者にいこう、と布団の中で考えたが、それにしてもノドが馬鹿みたいに痛む。
体に倦怠感がありインフルっぽいが、うつの倦怠が元々あるのでよく分からない。(←うつ病あるある)
それよりとにもかくにも、ノドが過去最大級の痛みを発している。
ツバを飲み込むたびに、激痛に堪えるために全身に力が入る。
それを繰り返しながらなんとか朝までやり過ごし、時間をみて早々に医者へと向かった。


診療の結果は、扁桃腺炎であった。
大人になるにつれ退化するはずの扁桃腺が残っており、それが腫れやすいとのこと。
こうも腫れたのは今回が初めてだが、とにかく抗生剤などをたくさんもらい、翌日にはずいぶん良くなった。
人に感染るものでもないらしく、ホッとした。


様々な力み


当ブログで何度もふれてきたが、うつ病になると『身体を力ませるたびに体調が崩れる』ということが続く。

指で押してもすぐに元の形に戻るゼリーに対し、私の心は例えれば粘土だ。
押されたところが押されたまま、くせがついて元の形には戻らない。
「足が痺れた」「発表して緊張した」など様々に力んでも、しばらくすれば平常に戻るのが普通だが、私の場合は心と身体に圧迫感や歪みが刻まれてしまう。


こうした嬉しくない暮らしを長年させてもらっているせいで、傾いた体調を戻すことには慣れた。
「直すか…やれやれ」という感じだが、そういう中でも今回のような発熱による興奮痛みへの抵抗などのように、身体が無意識に行う力みによる歪みの把握は難易度が高い。
言わば「運動以外の身体の力み」だが、それらはまず存在自体を見過ごしやすく、また解消する際にも繊細な技術を要する。

これまでを振り返ると、該当するものとして

腹痛、頭痛、モノモライのまぶたの痛み
冬の寒さ・夏の暑さ
満腹
眠さの我慢
飲酒での心身の興奮
海に潜った時の呼吸の苦しさ

などを経験してきた。
そしてそれによって刻まれた内面の歪みを解消してきたのだ。 

ちなみに今回のノドに関連する崩れを把握し解消できたのは、昨日の朝だ。
つまり10日ほどかかっている。

まだ弱い私の心は、いろいろな刺激を受入れてはしばしばフラつく。
簡単に傾かない、安定したレベルに到達したいものだ。



2014年12月5日金曜日

心の構造


「心」を構成しているものは、以下の2つの要素である。
① 身体感覚  
② 頭の中のイメージ映像

身体中を満たす身体感覚(①)の存在は誰もが知っていると思う。
しかしそれが「心」の主要な構成要素だという認識はあまり一般的ではないかも知れない。

それから、「何かを思い浮かべる」という作業。
その際の言わばイメージ画像のような、想起される形(②)。
 
以上、①と②が「心」である。「心」とはこれだけである。
 
 
①のバランスによって②の動きが決められている。
②を意識的に動かす行為が「思考」、逆に勝手に動いてしまう現象が「感情」だが、
それらはともに①の構造の影響下・支配下にある。
すなわち「身体の感覚がどんなふうに分布しているか」が、思考力・記憶力など重要な「能力」を定め、また感情・情緒面など「性格」の主要部も定めている。

言い換えれば、思考も感情も言わば表面的な結果に過ぎないものである。
つまり気にしても仕方がないということ。
身体感覚さえ健全に張り巡らされれば、それらは自ずと適正になる。
よって、自分の能力や性格の質について思い悩むよりも、身体感覚の健全化に注力しなければならない。
(その方法については過去に記載。)


自分の思考(理性・論理)の確かさを過信しないこと。
また、感情に身を委ねすぎないこと。
それら「表層に現れるもの」につい気を取られてしまいがちだが、それらは実は確かな意味を持たず、身体感覚に動きをつけられ漂うだけのものなのだ。


瞑想がもつ力?


瞑想に力はない。

力はあくまで心身に備わっている。


瞑想は、心身の力を正常に引き出すための単なる調整だ。
特別な術ではない。

心身に耳を傾けること。
バランスの崩れも含め、正常反応しか起こっていないということを知ること。

自分の生命力と、それに基づいて完成した心身を信頼しよう。
まずはそこからだ。



2014年11月28日金曜日

健康的な時間配分


瞑想の時間を設けることによって、その間は有害な習慣などから距離を置くことができる。

そのメリットだけでも相当なものだ。
瞑想の「正しいやり方」について悩むくらいなら、まずは座って『一休さんのモノマネ』でいい。

ポン、ポン、ポン

自分のなかで他者を知る


以前もふれたが、ヴィパッサナー系の瞑想を続けると、物事に対する「感じ方」が穏やかになる。
身構えることが減ったり、信じたり楽しんだりできることが増えたりする。

2014年11月21日金曜日

目の開閉による光の明滅


目を閉じて4、5秒そのまま…
ちょっと開き、またすぐ閉じて4、5秒そのまま…

これは、私の経験では「うつ」改善に効果がある。
ゆっくり呼吸しながらや、瞑想しながらなど、よくやっている。
身体の力を抜き、『視界に光が差し込んだ』と『暗くなった』を交互に感じるくらいの軽さで。

明るい、暗い……
明るい、暗い……

のような感じだ。
目を開けたとき何かを見る必要はないし、まぶたも固く閉じない。
とにかく力まずに行う。


眼球を動かす方法もよいが、こちらのやり方のほうが落ち着いてやれる気がする。
あまり馴染みがないが、視覚への働きかけは『心』にとってきわめて意義深いものだと考えている。



2015年 ダイアリー

来年の手帳を買った。
 

サンノーアルファブロックスリム・B6判 


去年使ったものよりもやや大きいものにした。
税込¥1,134
 
気に入ったポイント
・B6スリム(184×115)サイズ
・月間ページがカレンダー型で広め
・巻末メモページが多め(56枚112ページ)
・180°開きやすい
・栞が黒とシルバーでシック
 
いまひとつなポイント
・カバーのフォントが古くさい
・見返しのブルーが微妙

モレスキンラージよりも少し小さい
 
モレスキンラージのソフトよりも薄い
見返しのブルーがやや貧相
 
フォーマットは微妙にクラシック
6ミリ28行の横罫が112ページ(56枚)
 
週間ページはない。
月間ページ+メモページという構成だ。
同社のアルファブロック・B6判は厚すぎて、このくらいのスリムさが丁度いい。

それにしても、転職してからダイアリーが定まっていないな。うーむ…。
 
 
 

2014年11月14日金曜日

動きながら休む。


先日、知人が興味深いことを言っていた。
その人は70歳を超える女性で、とある習い事の先生なのだが、とても元気でパワフルである。
その先生が何気なく次のようなことを言った。


『働いた後に、後片づけしながら休むようにしています。荷物を持ち上げたり、歩いたり、腰を下ろしたり。その動きの中で身体をほぐすように心がけています。若いころは、動いた後はグッタリと座り込んだり寝そべったりしたかったけれど、歳とってからはそれだとますます億劫になってダメ。近年、ゆったり後片づけしながら身体を休めることを覚えました。先生が一番お元気ですね、と年下の生徒さんに言われますが、じつは私は動き回りながら休んでいるんです。』


これはとても瞑想的な話だと思った。
その身体や疲れとの向き合い方は、私にとって、実に腑に落ちるものだ。
ゆったり心や身体の動きを振り返りながら、使った部分の余計な力みを緩ませ、解消する。

じっとするばかりが休息ではない。
仕事中などでも、動きの中だからこそやり易い休ませ方がある。

参考にしたいと思った。



2014年11月7日金曜日

悟り 4


かつて体験した『悟り』らしきものの状態を 一言で表すと

 『“次のできごと”しか見えない』だった。



自分の次の視野内の様子が見え、それをトレースした行動が連続していく。


それしか起こらなかった。


静かで穏やかな心で、心配も後悔もなかった。




2014年10月31日金曜日

自動マインドフルネス 「スローモーション」


私が愛してやまないヴィパッサナー瞑想。
自分の心身を感じ取り、自律神経を整える。


体中の身体感覚のなるべく全てを、内側からいろいろ感じ取っていく。
しかし「痛い」「痒い」、「暑い」「寒い」などは分かりやすいだろうが、何気ない小さな感覚を拾うというのはピンとこないかもしれない。
そんな時にはスローモーションの活用をおすすめしたい。


スローモーション


「スローモーション」の瞑想技法は、ヴィパッサナーなどの知識がある方にはお馴染みだろう。
ザックリ言えば、太極拳のようにスローに身体を動かすことである。
それにどんな意義があるのか。それは、

1. スローであること
2. モーションである(動いている)こと
のそれぞれに意味があるように感じる。


“スロー”の利点


「スローな動き」の意義を、逆の「速い動き」と比較して考えてみる。

身体の「速い動き」は、意識が注がれているようで実はむしろ無造作なものだ。
たとえば顔の前で「グー」をつくり、次に素早く「パー」にしてみる。
この時、開き始めに瞬間的に力を入れたあとに、反動や惰性でパーまでいっている感じが分かるだろうか。

今度は、極端にスローな動きでグーからパーへもっていく。
半端な遅さでなく、動いてないんじゃね?というくらいに、極限までスローにしてみる。
このとき拳を開くために使う箇所を全て感じ続けないと、極限までスローにできないはずだ。
前腕、上腕、肩、胸や首まで意識しないと、本気の「遅さ」は追求できない。

「速い動き」は初動のあとに力を抜き、慣性で振り回すほうが効率がよいが、「スローな動き」の方はスローであるほど各所をキープする必要が生じ、マインドフルでなければ不可能になる。

上記を意識してさまざまな動作を行なってみよう。
身体のいろいろ箇所を感じることが出来てくるはずだ。
このように、超スローは身体に意識を向けることのセンスを高めてくれる。
慣れたら、超、でなくてもややスローでもよいかと思う。


“モーション”の利点


心身の観察は、コツを掴めばじっと座りながら行うことも可能だ。そうなれたらスローモーションは必要ないかというと、そうでもない。
スローモーションは常に優れた瞑想手法である。

使う身体の箇所は感じやすいからである。
たとえば腕に残った力み等は、ヒジの曲げ伸ばしや手首を回すなどの動作を行いながらの方が感じ取りやすい。
これは、力みというものが身体を使う中で形成されることが多いので、同じ箇所を使う中での方が出会いやすいためだと思う。


まとめ


スローモーションは身体の感度を高める基礎的なトレーニングになり、またマインドフルネス状態へ効率的に移行するための補助にもなる。
それでいて「技術」と呼べないほどシンプルなものだ。
ぜひ生活に取り入れ、活用することをお勧めしたい。



2014年10月24日金曜日

諦めなかった

 
以前の記事で、自殺すべきでない理由は『人生が勿体ないから』と述べた。それはある時期から一貫して変わらない。
しかし、ふと思い出したことがある。
うつ病が最悪の頃、自分はどんなふうに絶望を乗り越えたのか?


―症状に追われパニックのようだった初期
―簡単に治りはしないと悟り、恐怖を深めた中期
―瞑想に出会ってからの後期

うつ病の経過は上記のように分けられるだろうか。長くハードな日々だった。
「もう生きられない」と何度思ったか分からないが、私を直接踏みとどまらせたのは、冒頭の『人生が勿体ないという考え』ではなかったかも知れない。


私はうつ病になってから、健康な人生というもの全てを見下すようになっていた。
心を病むことの恐怖と損失を知ってから、世間の問題のほとんどが取るに足らないものに思え、あまりに表面的なことに心身を躍らせているようにしか見えなくなった。
世界の大部分を敵視した、閉塞的な精神状態に陥っていたのだ。

そのため、自分が死んで誰かが悲しむことなど気にしなかった。
そもそも私の身に起こっていたことを健康な奴らの誰が理解していたか、くらいにしか思わなかった。

そんな極度に自己中心的で死を日々意識していた私が、それでも自殺を実行しなかった理由は、「私と似た状況にいる人達」の存在があったからだと思う。
具体的にそういう誰かを知るわけではないが、誰かがいつ終わるとも知れない苦しみの中、私のように必死に模索しながら生きている様を想像することは、ある種の支えになった。

私自身も「こんなに頑張っても意味ないのではないか?」という不安とせめぎ合って生きてきた。
私が死んだら、「やはり無意味だった」ということを私自身が証明することになるのではないか…。

同志への裏切りとも言える「安易な投降」はしたくない、という思いが私を生かし続けたのだと思う。
逆恨みに心を明け渡した私が、最後にもてる誇りだったのだろう。


* * * * *


自殺の可否に対する答えは、「一般論として」、「他者を救うため」、「自分を救うため」など、目的によって落とし所を変えざるを得ないものだと思う。
そしてそれでいいのだろう。
答えを一つに定めるよりも大切なことはある。
いま、人を救う。いま、自分を救う。
そのために最もうまく伝わる言葉に、誤りもクソもないと思う。

私は「人生が勿体ないから」、自殺に猛反対だ。
「もう終わりだ」と思っている時の人間に、その時の自分が本当に「終わり」か否かを正しく判断する能力はない。
極度の窮地にいる自分にそんな重大な判断をさせてはいけない。
その後のあらゆる可能性が途絶えかねないのである。
勿体ないと言わずしてなんと言おうか。



2014年10月17日金曜日

アスリート


うつ病の管理のために私が何よりも重視しているのは身体の使い方の管理とケアである。
『肉体の管理』がライフワークとは、さながらアスリートのようである。

アスリートと言うとカッコよい気分にもなるが、そう自分に暗示をかけることでモチベーションが高まれば、という魂胆もある。




時を纏(まと)う物

学生のころ古着が好きであった。
当時、大阪から『ネオ古着ブーム』というのが起こり、関西にいた私はそれにハマった。

ネオ古着ブームとは、40~70年代のアメリカ物のVINTAGEブーム後に到来した、80~90年代の音楽・スポーツ・スケート・企業・パロディなどのストリート・サブカルを背景にした、カラフルな古着の流行であった。
前者を昔の労働者・軍人・カウボーイなどのコスプレ、後者をミュージシャン・スケーターなどのコスプレとイメージしてよいかもしれない。

ネオ古着の流行は、音楽の流行と強く絡むものだった。
米西海岸の乾いた空気感や欧州clubの先鋭的で湿気を帯びた高揚など、音楽のトレンドを取り込んで流動していった。
また、敢えて古いものと新しものをミックスする、映画・音楽・ARTなどのウンチクを効かせるなど、『分かる人には分かる』情報戦さながらの幅広い表現を生み出しつつ、パワフルに広がっていた。

(そもそも古い物はアーカイブの側面をもつが、路上文化やサブカルチャーがその歴史を振り返るに足る厚みをもつに至った時期だったのかもしれない。)

しかし、諸行は無常。終わりのないブームは無い。
高い自由度を誇ったその流行も、象徴的なスタイルが溢れ、停滞し、そのものが1トレンドと化しながらやがて時代の波に押し流され消えていった。

実のところその流行自体、ごく狭い世界での出来事だったのかもしれない。
そこに生き、酔いしれた私は“若者だった”ということに尽きるが、古着を通してさまざまな時代の『空気感』にかりそめにでも触れた経験は、自分の財産になったと感じている。


たわいもない昔の話。
そんな、過ぎし日を振り返る理由は……先日、久しぶりに古着を買ったのである。




まったく古くなく、高価でもないLevis519。コーデュロイでなくデニム。

歳を取るにつれ古着は着なくなり、ほぼ全て手放してきた。
しかし近頃、何となく古いものに惹かれる
古さというよりも、時を経てきたということに親近感や愛着のようなものを覚える。
お前も、長いこと世の中を眺めてきたんだな……というような。

そうした湿っぽい物の見方は、いまの私の体調には好ましくないのだが。

いずれにせよ、“かつて若者だった私”も歳を取ったということだけは言える。





2014年10月10日金曜日

「苦痛」も自分の一部


このごろ体調が良い。
頭・首・背中などにピリピリしたつっぱり感があるが、全体的にシンプルである。
なによりも、「必要ないことから自然に意識が離れる」という認知面の軽やかさが良い。

私はうつ病による心身の「痛み」「重苦しさ」を抱えている。
それがセンサーのような役割を果たし、瞑想の効果や意味をよく感じ取ることができる。
「体調がどう改善・変化したか」という明確な基準をもつわけである。

ある意味、うつ病の「苦痛」も身近なものに思える。
親しみと言うとおかしいが、それを通して心身を考え、理解し、管理して生きている。
この苦しみと付き合うなかであらゆる理解を深め、人生観の核を築いてきたことは紛れもない事実だ。
新たな人生観が得られたこと自体は喜ばしいことだと思っている。



Spirit and the body:スピリチュアルについて


私は、「スピリチュアル」系を頼りにすることがない。

宇宙の何々とか、引き寄せとか、そういうもののことだ。
そういったものがあるならば私も嬉しい。
優しくファンタジックな頼れる力がもし存在したなら、素敵なことである。

しかしそういうものを信じることで幸福が手に入るなら、その力の主は
「信じて心を開いた人だけハッピーな方に導こう」
という、贔屓めいた意図を有することになるだろう。
大いなる力が本当に存在するならば、それは人間の価値感による幸・不運など超越してるだろうし、また「知らない者には働きかけない」といった意味不明な原理を持っているはずもないと思う。

とは言え、健康を損なっている人は、スピリチュアルでも何でも活用して体調を良くするのが優先かとは思う。
うつ病においては「迷わない」ことはとても大切で、それが手に入るならば、極論何を信じたってよいだろう。

ただ私のようにスピリチュアルに馴染めない人もいる。
私に言わせれば、「運命」というのは当事者の納得や祈り等とは完全に無関係だ。(言うまでもないが。)
自分の身の回りには、これからもどんな事だって起こりうるだろう。
心身の鍛錬によって備え、それで通用しなければ「終わり」でよい、と思っている。

ちなみに私が信頼する、私にとっての言わば神様は、私の「身体」とそれを内包する「自然」である。
とくに私の身体(body)は人間のことを何でも知っていて、よく聞けば全て教えてくれる大先生である。



2014年10月3日金曜日

MUJI『ABS最後の1mmまで書けるシャープペン』


3年ほど使っている。
思い入れを抜きに「使用感」だけで言えば、歴代ベストのシャープペン。
(思い入れも加味するとKERRY、STAEDTLER製図用、ZOOM、コクヨフィットカーブなども上位。)

太さ・長さ・重心など全てしっくりくる。
また見た目もチープすぎず重厚すぎず、私には理想的。
商品名にもなっている「最後の1mmまで書ける」機構も素晴らしいが、そうでなくても私にとってNo.1である。

税込¥450- ファミマで買える






ちなみにABSとは、軸の素材『ABS(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレンの頭文字)樹脂』のこと。


安価だが気づけば長い付き合いになっている、こういう物は貴重だ。
惚れ込んで手に入れても長続きしないことは多く、またシンプルならば必ず飽きがこないかと言えばそうとは限らない。

モノとの相性というのはなかなかに微妙だ。




2014年9月26日金曜日

うつ病下での仕事


1日当たり10個の仕事をこなせていた者が、「うつ病」になって能力が20%に低下したとする。

そこから「10個すべてを20%しか仕上げない」はNG。
「2個だけ100%やり、残り8個は見もしない」が良い。

10個すべてが未完成な気がかりとして残るのが危険である。
2個は片付く方がマシだ。
残りの8個には元々必要がないことが含まれてたりもする。



うつ病下では何かの技術論などに凝るべきではないが、上記のような心の管理に役立つコツは多少持ち併せたい。

「弱った心を守る」生活ならではの、独特の流儀がある。



2014年9月19日金曜日

瞑想あるある


瞑想が上手くいく最中、手足や腰などに

“ジワーっと湯のようなものが流れ込んでくる”


ような感触があることがある。
「ぼんやり温まる」のではなくて、温度のちがうものが流入してくる感じ。


電流だろうか?




2014年9月12日金曜日

寝る瞑想


マハシ式のヴィパッサナー瞑想の基本に、「座る瞑想」「立つ瞑想」「歩く瞑想」というのがある。
「寝る瞑想」はない。
横たわる姿勢は、ゆったりできるものの、たしかに問題あるように感じる。
身体のたくさんの箇所に「力がかかる」のだ。

仰向けでは、床や枕に接する背中・腰・かかと・後頭部・首
・うつ伏せでは、床にあたる胸・腕などに加えて、首・顔(アゴ)などの横へひねる箇所
・横向きでは、下になった肩など体重がかかる箇所や、そこに繋がり曲がる首の付け根

寝る姿勢は、休まるところも多いものの身体のあちこちに力がかかる。
いたわるつもりが逆に歪みを複雑化してしまうこともあるということだ。
「横になるのは短時間にする」「眠気がかなり高まるまで横にならない」のが正解のように思う。


本来はどこにも力が入らないのが望ましい。のだ
身体を立て、背骨のまっすぐ上に頭が乗っているのがベストだ。

傾かない、支えない、引っ張らない、力を溜めない。
自然にバランスをとった、「立つ」や「座る」姿勢が、やはり最も瞑想的であるように思う。



2014年9月5日金曜日

ビルケンシュトック


独のサンダル「ビルケンシュトック」を履くと足の平が痛い。


歴史もあり支持もされているブランドであるが、履いた日は気持ちが沈むのだ。
足を鍛える機能をもつらしいソール。
それで痛むのか。
私の足は訓練が足りてないらしい。
結局手放してしまった。

ストレスのない着衣が理想だ。
ネクタイなどは最もダメである。



2014年8月29日金曜日

瞑想にツッコミ 3


瞑想では「今ここ」に注目する。

目の前の世界は全て「今ここ」にあるが、目の前のコップをずっと観察しても何も起こらない。
注目の先は、コップではなく「自分の心身」に向けられねばならない。

そうすることによって、自分に何をさせるのか。

他者の視線や思考を意識しながら肉体を力ませることを自分にさせないことが肝要なのである。
この習慣を停止しないかぎり、心の歪みが累積される。
そうならないために、意識を外へ移すことなく、自分の内側に留めなければならない。
(⇨関連の記事

「今ここ」に注目するのは、「今ここにしか真実が存在しないから」ではない。
その心掛けによって身体感覚の誤った使い方を回避できるから、そうすべきなのだ。


瞑想へのツッコミ1でふれた「過去や自分のことについてただ悶々とする」ことは、部分的に自らを観察することではあるが、「自らの肉体を感じる」ことが抜けている点において、「瞑想的な観察」としては不十分なのである。



2014年8月22日金曜日

瞑想にツッコミ 2


ヴィパッサナー瞑想の大きな特徴、
①「“今ここ”に意識をまとめる」
②「身体感覚に注目する」
のうち、②の必要性の説明が不十分であることが問題である。
これがモヤモヤを生む。


「雑念から距離をおけるから良い」
「雑念の起こりを察知できるので良い」
というのは①の必要性を説くだけのもので、「余計なことを考えない」ことの効用を述べただけにとどまっている。
これだけでは
「雑念から距離を置いて美しい風景などをイメージしてはダメなのか」と思うし、
「雑念の起こりの察してやめるのは、単なる気合い勝負ではないか」という不信感も生じてしまう。


なぜ②の身体感覚への注目が必要なのか、それは

心は“身体感覚”によって成形・固定されており、
したがって心の歪みも“身体感覚”の操作で修正する

という原則があるからだ。


もう少し続く


2014年8月15日金曜日

瞑想にツッコミ 1


私が愛用して止まないヴィパッサナー、マインドフルネス系の瞑想。
愛用して止まない……されどその周辺には、ツッコミどころが確かにある。

基本的にその仕組みの説明は、下記の組み合わせでなされる。

1)人間は、心配や後悔など「今ここにないもの」を思考(妄想)して苦しむ
2)心の苦しみは、必ず何らかの身体感覚として表れる
3)思考と身体感覚の「ありのまま」を観察することで、自分の実体としての成り立ちが理解される
4)「今ここ」についてのの観察により
 ①思考(妄想)から距離を置くことになる
 ②苦の原因たる妄想の起こりを察知できるので、暴走を予防しやすくなる
5)仏教的に1~4は、人間が「無明(無知)」を解消し真実を把握するプロセスである
6)瞑想後に脳波、血流量、神経伝達物質、遺伝子…などが改善したデータあり


以上の説明は、それなりに分かり易い一方で引っかかるところもある。 
こだわりすぎも良くないのかも知れないがきちんと理解できているに越したことはない。

瞑想の知名度が向上する一方、その仕組みの解説は長年変わり映えがない。
問題は、モヤモヤを残したまま解決済みであるかのように扱われていることだ。


疑問

モヤモヤの例を思いつくままに挙げてみると、

【仕組み・やり方について】
① 思考(妄想)から距離を置く為に例えば「山々の風景」などをイメージしてはダメか
② 思考(妄想)の起こりを察知して暴走を予防するというのは、つまり気力頼みでないか
③ 自己のありのままを「観察」すると心の歪みが解消されることについて、例えば自分が怒りっぽいことをいつも反省しているような場合、その意味において少しは観察していることになろうが、その観察によって少しでも解消されているとも思えない。「観察」すると収まる、とはどういうことか

【その他】
④ もろもろの科学的データが、「どの程度の変化だったか」が不明。つまり「他の方法よりも改善が早いか」や「他の方法で治せないことも治せるか」などが分からない。結果、「気分がよくなる程度ではないのか」という疑念が生じ得る。
⑤ 「メカニズムについては考えないほうがいい」とよく言われる。「瞑想の最中には忘れるよう努めるのでとりあえず教えてよ」と言いたくなる


すべき整理

結論としてモヤモヤをすべて解消するのは難しいと思う(残念ながら)。
なので私は一定の整理をしてとらえている。
大した整理ではないが、長くなってきたので次回につづく


2014年8月8日金曜日

野田サトル『ゴールデンカムイ』 



ついに……ついに!!……野田サトル先生の新連載ッッ!!

『ゴールデンカムイ』

再来週8月21日㈭のヤングジャンプより連載スタート!!!



前作『スピナマラダ!』の終了から、この日を心待ちにしてきた
良かったぁー……涙


2014年8月1日金曜日

夏の風物詩 


子供のころ、「怪奇特集 あなたの知らない世界」というのをTVでやっていた。
心霊ドラマがメインの昼から30分ほどの企画で、夏には1~2週間ほど毎日やっていたように思う。

番組に寄せられた「視聴者の体験談」に基づいたドラマを、あまり見かけない俳優陣(失礼)が独特の空気感で演じていた。
大の大人たちが霊に追いつめれていく様に、私は「人力がまったく通じぬ霊こそ最強」「狙われたら最後」と戦慄を覚えながら、田舎のおばあちゃん家のトイレに一人で行けなくなる、風呂場で背後の気配と格闘したくなる、などの深刻なリスクを引きうけながら、欠かさずチェックしたものだ。


思い返すと、かつてのそんな番組が培った「悪いことをすると呪われる」という思いはけっこう長いあいだ私の心にあり、今なお潜在的に、ある種の力を有しているように思う。


近年、そうした心霊番組は減ってしまった。
これは「殺人など残酷な部分が教育上よくない」「怖くてトラウマになった」「科学的根拠もないものを勝手に作るな」…etcの意見・クレームを制作側が配慮して、自主規制しているためというが、私はそうした番組が持っていた良い面も失われた気がしている。

“祟(たた)り”にまつわる物語は、古来から日本において道徳教育を補完する役目を担ったのではないだろうか。
『貞子』以降の過剰にモンスター化したものでない、身の回りの普通の人の想いとして立ち現れる霊の悲しみの姿を通して、思いやりの心が育った面もあったのではないか。
無宗教な今の日本こそ、幽霊が活躍すべき場かもしれないと思ったりする。


2014年7月25日金曜日

長引く「うつ」 ~性格との関連~


もともと鬱っぽい性格だと、うつ病の治療に手こずる。


私のことである。

うつ病になって9年が経とうとしている。
今現在「ひどく苦しい」といった印象ではないが、長いといえば長い。

自分のうつが長引いた要因は、主に以下が挙げられると思う。
① 仕事を休まなかった
② もともとの性格との関連
③ うつ病初期に、自分に活(かつ)を入れようとムチャをした


もともとの性格との関連


「うつ病が長引きやすい性格」というのがあるそうだが、自らの実感もふまえてその通りだろうと思う。
健康的な思考パターンを知っており、かつそれが記憶に新しい場合ならばうつ病を治すには有利であろう。帰るべきまっとうな場所が近くにあるイメージだ。
反対に、健康的思考から長く遠ざかっている、もしくは元からほぼ知らないような場合(← 私)は、言うまでも無く不利である。
慣れ親しんだネガティブ思考が、治療のジャマになる。

私見では後者のタイプは「元と同じ形」に治ることはないと思う。
帰るべき(?)元の場所は、発病をきっかけに病との境界を失ってゆるやかに同化し、私は、一度離れたのちにそこへ舞い戻ることはできなかった。


こうした場合、もとのベースを何とか生かしつつ人生観をリニューアルすることになる。
私はそこに年月をとられたわけだが、早くから瞑想を用いれば効率よく進められたはずだ。
むやみに焦らず、あくまで瞑想と並行するなかで自然な人生観が形成されるのを待つのが理想だ。


これは簡単な作業でない。ある種の犠牲も必要だ。
だが私は、元の自分に戻りたいわけでもなかった。
それはそれで、ロクでもないものだからだ。
だから私は、人生観を「いい歳して」立て直す作業を、苦々しい気持ちだけで歩んだわけではなかった。
盲目だった私にも遂に進むべき道がハッキリ見えたし、自分の人生と向き合う誇りのようなものを手に入れることができた。

瞑想をもっと早くに知ればいろいろ違っただろうが、時代のせいもあったろうと思う。
今からやれることに感謝して取り組むのみである。

「正しい瞑想」と「正しい人生観」の両輪は、相乗効果で広範囲に心身の修復をする。
焦らず、しかし諦めず、の歩みが大切である。





2014年7月18日金曜日

瞑想と眼球運動



「眼球を動かしながら」のヴィパッサナー瞑想が、調子よい。
先日の記事でふれたトラウマ治療法『EMDR』について考えながら、なんとなく試していたのだ。


「意識」は、視覚情報の集合体である。
「気持ち」は、視覚情報と身体が絡む時の感触である。
「性格」は、各人の、視覚情報の分別ルールである。


そうやって、われわれはいつも画(え)ばかり見ている。




2014年7月11日金曜日

読書感想『あなたを天才にするスマートノート』

岡田斗司夫  (文藝春秋 2011)


前表紙



発想力・論理的思考・表現力などを伸ばすためのノート使いについて書かれている。

「ノウハウ本」の類を手に取ることは少ないけれども(嫌いでないのだが、読むと疲れるので)、これは愛読している。

本書の「思想」が好きである。

社会に出てからは、いろいろな情報に手を出さずに自分がその時々、本当に気になることだけ合点がいくまで学ぶのが最良だと思っている。
「量より質」ならぬ、「量より質と縁」。
私のその感覚にもこの本は合致したように思う。

義務感から離れ、ワクワク感を充足させる。
それによる自己の安定。
そんな「わが道に帰る」感じが良かった。

「ノートの右ページと左ページで内容を分けて」云々…といった技術的なところより、一番は著者の考えを述べた部分がしっくりきた。

(以下引用⇓)

ノートによる思考法は基本的に『農業』です。
「効率よく知的なアウトプットを増やす」という工業的な発想ではありません。そんなやり方では一時的にアウトプットが増えたように見えても、あなたの脳内はやせ細り枯渇してしまいます。
脳を効率よく使うことを考えてはいけない。
脳はもっと、肥沃な大地として実りを願う場です。

(引用おわり)

著者の個性は好みが分かれやすいのかも知れないが、これはとてもまっとうな本だと思う。




だいたい1周年

当ブログが1周年を過ぎていたことに気づいた。
ささやかながら、1年続いたことは嬉しい。

うつ病と瞑想について書くつもりだったが、関係ない事もけっこう書いている。
重い話ばかりも考えものだし、書く人間の姿がある程度伝わるのも良いことかもしれない。


瞑想について、根拠を示せないことも意義を感じれば恥を忍んで書いている。
勇気がいることではあるが、一体験者として感じるままを率直に(なるべくは客観性を保ちつつ)書くことを大切にしたい。
あらゆる状況・段階に当てはまりはしないと思う。
参考になれば幸いである。

実体験から得たこと・役立つと思うことを、
なるべく分かりやすく、
週に1回は書く(金曜)、

を目標に、楽しみながら続けたい。



2014年7月4日金曜日

なぜ自殺していけないか


「なぜ自殺してはいけないか」というテーマに対して、さまざまな答え方がある。
していけない根拠を厳密・端的に説くことは不可能なのかもしれない。
すべきでない理由を熱意をもって論じることだけができる。

① 命は絶対的に尊いのでダメ
② 自殺は自分を「殺す」=殺人のようなもの、その罪によりダメ
③ 周りの人が悲しむからダメ
④ せっかくの人生が勿体ないからダメ
⑤ 自殺すると地獄に行き、もっと苦しむのでダメ
……
 
↑この辺りがメジャーだろうか。
私は「④人生が勿体ないからダメ」派だ。


①~③は、元気な人間の思考に基づくものだと思う。
人間が「死にたい」と思う時は本来の感性や判断力は弱まっているので、①~③に対しては結局、「頭では分かるけど、悪いが知ったこっちゃない」となる。
本人が感じ取る豊かさや損失よりも「周り」や「道義」への配慮を優先させようというそれらは、余裕をもって生きている人間ならではの、言わば「達観」したものだ。

死にたくなる原因は結局、「生きていて楽しくないから」である。
ここで言う「楽しい」は、お祭りさわぎやワクワクドキドキのそれのみでなく、「苦しくない状態」から「静かな満足感」や「誇らしさ」なども含む。
そうした根本的な何気ない「楽しい」「楽しくない」がありきで、その他の理由は後から付け加えられるものではないだろうか。
自殺しない人間は、その理由を言葉で確認しているのではなく、だいたい「まあ楽しかったりするからそのまま生きている」だけだ。

もし人生を楽しくできるならば、自殺は勿体ない。
(私は④派である。)

実際、世の中では皆がそれぞれの価値観で満足を見出して生きている。
生きるために必要なものに「絶対」というのはない。
すべては、ちょっとした「感じ方」「価値観」の問題だ。
少しの「感じ方」を変えるところから始めてストレスの管理方法さえ身についてくれば、人間、自然に何らかの楽しみを見つけていく。
生命力はそのように強くできている。

『ストレスの多くは瞑想で緩和できる』ことを知ってから、私は一貫して④派である。
瞑想で物事の感じ方を変えられるという事実は、きわめて大きな希望だ。


自殺してはならない理由。
それが明確に存在しないとする結論付けのある意味における正しさは、この世の中において誰の何の役にも立たない。
何事によらず時々ある「冷徹なだけでまったく世の中を良くしない考え方」、こういうのは迷わず無視で良いだろう。
この命題においては尚更だ。


(なお⑤は地獄が存在するという前提が個人的には唐突で入りづらいが、忠告として親身である点で少し誠実に感じられ、①~③よりも好きである。)



2014年6月27日金曜日

近況  ~かつて通った場所~


このごろ頭が痛む。
耳の上あたりと、首の後ろ。
突っ張るような痛みだ。
体調を崩した初期(8年前くらい)の痛み方によく似ている。

私のうつ症状は、時間の経過とともに感触を変化させた。
「身体が痛む」「思考が拙い」のは継続しつつ、それに加えて、こめかみが激しく痛む、夜に眠れない、身体の左側の感覚がおかしい、腹部の力が入りにくい……など、時期によってメインになる症状が入れ替わった。

また、その各ステージには対応する気分がセットになっていて、強気、センチメンタル、無能感…など、優位な感情もその時どきで入れ替わった。
そのつど世界が違った心象で感じられた。


うつ病の回復は、遡るようにして進む
今いるステージから、ひとつ前のステージへ。
私がいま立っている「こめかみが痛いステージ」は、冒頭でも述べたようにかつて立ったことのある懐かしい場所だ。
そして興味深いことに、やはり当時と「気分」や思考回路も似ている
セット、である。
人間のマインドが、肉体をともなう内的構造に強力に道を付けられていることを、再認識させられる。
頭と身体の全体で、「心」なのだ。


かつて今日と似た体調の日、私はただ混乱・恐怖するばかりで、さらなる迷走へ転落していくばかりだった。
しかしその後長い年月を経て、瞑想によるコントロールを少し身につけた私が、一歩引いた所から自分の体調を眺めている。
どのように持っていけるか、腕が鳴るといってはおかしいが、旧敵にリベンジを挑むような奇妙な感慨がある。

体調を戻す過程では、しばしば上記のようなかつて通った場所を再び通る感覚を体験する。
症状のバリエーションを数多く経験し、それぞれに冷静な目を向けられるようになってから気付いたことだ。

私はけっこうな年月を要したが、良くも悪くも「慣れ」は何にでもある。
病気も例外ではない。
いま最大と思える苦しみのうちにいても、病気に渡り合って凌駕できる日がくることを信じてほしい。
偉そうに言えるわけではないが、私は少なくとも、希望を持って生きられるようになっている。


2014年6月20日金曜日

いますべきこと

 

いま、先の計画や見通しを考えるより、

 

その時間を「瞑想」にあてる、

 

その時間の方が、確実に将来のために生きる。

 





( ↑ うつ病下での心構え。)

 

調子がよい日、気持ちは先へ急ぎがちである。
完全に治るまでは「瞑想」最重視の生活だ。
自分に言い聞かせている。



2014年6月13日金曜日

瞑想をこう呼びたい


ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想のことを、「筋力トレーニング=筋トレ」にならって「神経トレーニング=神トレ」と呼べばいいと思う。

ただの思いつきである。

これらの瞑想は知名度を高めているが、「ヴィパッサナー」も「マインドフル」も、まだ呼び名として「なにか特別な」感じを帯びているように思う。
神経のトレーニングなんだから神経トレーニングでいいだろう、と思う。
そのくらい身近で何気ないものであって欲しいということだ。


「俺、ちょっと“神トレ”してきます!…」

文字にするとやや胡散くさくなってしまい微妙である。





2014年6月6日金曜日

目の力み


前回も触れたが、われわれ人間は、常に全身を活動させている。

生きている限り、体のなかに「死んでいる箇所」はない。
活動の強弱はあろうが、たえず全身を使い、それらを連動させていると言えるだろう。
自分がいかに無意識に身体を使うかに気づくことが大切である。
身体の活動を細かいところまで感じることが、心の健康のために必要だからだ。


さて、私の経験上、その存在がとても大きいにも関わらず見落としがちだったものがある。
それは「目」の活動による力みである。

目というのは、起きている時間のほとんどにおいて開かれ、連続的に働いているものだ。
光を受け入れ、焦点を合わせ、結ばれた像に認識を伴わせ…つまり「視認」している。

この一連の仕事において発揮される「力み」の存在を、私は長いこと認識していなかった。
物心ついてからずっと、あまりにも自然にやってきたからだろう。
身体の力みの「分布」を省みるとき、「目の力み」の把握が抜けていたのである。
それを意識してから、私の瞑想の効果は髙まった。

*  *  *  *  *

話は変わるが、「想像の世界」も、現実の世界のように五感で認識したような形をとっているように私は感じる。
人間は五感を通した経験しかないので、五感を通したような形の情報しか扱うことが出来ないのではないだろうか。
抽象的な思考なども、実は色・形・位置関係などを有する、モデル化された図のようなものを「視る」ように行なっている、という感覚がある。 

このことと人間が扱う情報のうち8~9割が「視覚情報」であることとを考え併せると、「想像」の内容も「視覚情報」の形に類似したものが大部分だと考えてよいだろうし、実際にそう感じる。

以上から、われわれの「精神・心」の姿とは、「たえず視ている主体」と言い表せるように思う。
今も、さっきも、あの時も、さらに頭の中でも、私達はたえず何かを「視ていた」。
「視る」ことについて考える意義は、極めて大きいように思う。


(関連事項として、震災後に注目がさらに高まったトラウマ治療法EMDR[Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法]も、マインドフルネスに内包されるメカニズムによるものだと私はみている。見るという行為と心との関連に特化した瞑想手法とでもいうべきものか。こちらもエビデンスのある心理療法として知られている。)



2014年5月31日土曜日

ピンポイントでの修正


ヴィパッサナーやマインドフルネスでは、目的意識などは持たずに「今ここ」に気持ちを置くのが基本である。

しかし、うつ病では「あのとき以降、体調が崩れた」と分かっている場合がある。
さっきあの人と会話してから不調だ、とか、昨夜の飲み会以来おかしくなった、などのケースだ。
それらがさらに別の不調の誘因になったりしないように、早めに修正したいところだ。

なので、「歪みを狙って直す」ことにも取り組んでいる。
やり方はこれまでも書いたとおりだが、「問題となった場面での身体の力みを、なるべく全箇所、同時に思い出す」ことである。


◆全箇所:
その時どういう姿勢をしていて、どこにメインに力が入っていたかは勿論、意識せずに入れていた力も思い出す。
われわれには、何をしていても「完全に休眠している箇所」というのはない。
立とうが座ろうが体中を使っている。
どこか痛むときは、そこを庇ったり抵抗する力も入っている。
また、緊張により腹部に力が入る、などの心理面からくる力みもある。

 ◆同時に:
上記の力みを、最終的には同時にイメージする。
すなわち力みの「分布」を再現する。

 ◆思い出す:
感触や疲労を丁寧に感じ取るように省みる。(今まったく同じように力を入れるという意味ではない)


体調を崩した時の身体の力は、他者の目線に意識が飛んでしまっているなか、言わばヤケクソに発揮されたものだ。
上記のような作業に専念すると、一旦その時の浮わついた心が思い出されつつもやがて落ち着きを取り戻し、それと並行しながら体調がスッと一歩よくなる感覚がある。




2014年5月23日金曜日

自分を守る心構え

 
うつに罹って7年ほど経ったころ、ヴィパッサナー瞑想を知った。

すでに身体に注目する重要性は感じつつあったので効果への疑いはなかった。
とはいえ、それまで長年ネガティブなものを吸い込んだ私の心身は、本来の統制力を欠いてしまっていた。

瞑想をどうにか頑張るしかなかったわけであるが、疲れ果てているが瞑想だけは集中してやれます、とゆくわけがなく、やはり生易しくはなかった。

世間の人の活力に触れるたびに自分の不甲斐なさに落胆し、投げ出したくなる。
そこで頑張るべき理由を振り返り、「自分がすべきこと」に専念する感覚を鍛えて…と、自らを何度も軌道に乗せなおす辛抱の日々があった。

本来は「辛抱」などと考え込まずに粛々と行えれば良いのだが、疲れた日・残念なことがあった日などは、どうしても辛くなる。
そういうときに私が自分に言い聞かせてきたことを、ささやかながら紹介したい。


①人の道に外れなければ、どうであってもよい
→この世で恥ずべきことは「人の道に外れること」のみだ。それ以外、例えば何かが出来ないとか、誰かに負けるとかは人の道は外れていないので恥じる必要はない。他人に迷惑をかけてしまうと申し訳ない気持ちにとらわれるが、病気でそうなっているのだからこれも仕方がない。

②自分の健康が第一
弱っている時に限って、なにか人の役に立ちたくなる(私だけか?人の手助けをしたくなったりする。何も出来ない惨めさから逃れたいのだろう。)人の支えになりたいなら、半端な体調で臨むのは失礼だ。健康であってこそ、何事も最大のパフォーマンスを発揮できる。まずは自分の健康回復以外に着手する必要なし!

③他人を見下してくる人間はもれなく三流。そういう人間に対するコンプレックスは不要
→瞑想が進むとよりハッキリ分かってくるが、人間の行動は大部分が無意味な「発散」である。人を見下すという行為も、本来は必要のない、安易な発散衝動に身を委ねた結果なのだ。そんな自覚もない人間は、どんな地位にいても無知だと心の中で思おう。よりによって他人を発散に用いるなど最低で、それこそ人道を外れている。



以上3つが、私がもっとも愛用していた考え方だ。(もはや瞑想と関係ないです。健康に問題ない方はスルーでお願いします。)

うつ病とは、言いかえれば「惨めさ」との戦いであるから、自分が凹んでしまうことを防ぐために「守りの体制」を強化しよう。
多少甘え・自己中心的な姿勢があってもよいと思う。
真に病気で苦しい人は、自分の健康回復が最優先だ。当然のことである。


心の中で「三流」「無知」呼ばわりした人には、元気になってから内心で謝っておこう。


2014年5月8日木曜日

悟り 3


「悟り」に近づいたと思われる時の話を過去にした。その頃に考えていたこと。

当時、人間には本能しかないという考えに到っていた(→関連の投稿)。
私が辿りついた結論によれば、人間を含めた生物はみな「自らの命を繁栄させようとする」だけの存在であった。

またそこから考えたことがあった。
人間がそれほどシンプルに「より強く生きる」ことだけを目的に作られているなら、「触れるもの全てを好きになろうとする」機能が備わっているはずだ、と。
楽しいことが多いほど、「もっと生きたい」という欲求が湧いて生命力が増強されるからだ。
我々の日常は、ほんとうは数々の喜びに満ちているのではないか、と思えてきた。

「人間が幸福であるために必要なこと」……そのために必要なものは、世間が言うように「自分を理解してくれる他者の存在」かも知れないが、それはあくまで「究極のテーマ」のようなものであり、当たり前だがわれわれの生は数限りない大小の「日常の納得」によって支えられている。
日常が喜びを無数に生み出しているか、そうでないかの違いは大きい。
大きいどころか、それが各人の人生に対する肯定感を決定的に左右し得るだろう。
毎日が「いいことがあった日」のようになれば、それは、気分も明るい。

しばしば私を混乱させてきた、決して恵まれていると言えなさそうな状況にいながら、自信に溢れ明るい人。
彼らの内面に去来しているものを想像できず、羨望のまなざしを向けるしかできなかったわけだが、私ももう少し視野さえ広がれば、彼らに近づくことができるのではないだろうか。
人間はおそらく、ちょっとした危険さえ楽しめるくらいの強靭な内面が備わっているのだ。

何となくの決めつけであった。
しかし日常を丁寧に過ごしてこなかった私にとってそうした考えはとても新鮮で、何よりそれまで半ば諦めてきた「人生をもう少し明るく」というテーマが前進しそうな、希望のようなものを感じさせた。
われわれは「生命力」の完全な支配下にあり、その強大な力を信じて身を任せることが最良であるに違いない、というようなイメージが膨らんできたのだった。

それから私は、生命力を信じて最大限に身の回りを前向きに味わってみるようになった。
例えば「食事」という行為であれば「これまで嫌いだった食べ物からも新鮮な味わいを感じとろう」とか「腹が満たされエネルギーが増す感覚を実感しよう」など、新しい見方を試していった。
生活における活動それぞれが自分にもたらす感覚に、改めて目を向けていったのだ。


* * * * *

上記のような「物事を自分の感受で捉えなおす」という半ば思いつきの行動が、結果的に私にとって、予想しなかった大きな意味を持つこととなった。
その習慣が自分の内面を大量に「観察(ヴィパッサナー)」する行為となったのだ。
つまり自分の内面をよく観察し、瞑想しながら過ごすような形になった。

ものを「視認」できることの安心感。見えるということ自体が素晴らしい。そして光彩に満ちた様々な景色は、改めて見ればどれも美しい。
コップを取るために手を伸ばすことができ嬉しい。腕をそこへ移動させて何かを掴みあげれば、ささやかだが達成感がある。
身体を動かすことは、むろん気持ちがよい。伸び縮みのほどよい刺激と疲れ、自分の身体への愛着。
呼吸も嬉しい。酸素が行き渡る安らぎは、どこまで感じられるだろうか。
八つ当たりなどをやめる自分の誇らしさ。
そんな誇らしささえ捨てれば、さらに清々しさを得られるかもしれない。
……

そんなふうに、五官や内面から喜びの感覚を探し、逆に自分に不快なことをさせないようにした。
義務感からでなく、自分の真の欲求を満たすために行動したのだ。
いつもの安易な価値判断に走らず、感じてみることに専念した。
(ちなみに怠けることやわがままを通すことは、真の快適からは程遠い。言い訳や負い目が生じて忙しくなり疲れることになるので、そういうことは避けるようになる。)

* * * * *

そして時が経ったある日、それまでとは違う驚くような心の静かさが訪れた。(詳細は冒頭のリンクのとおり)。
ヴィパッサナー瞑想というものを知り、その方法と自分がしたことに共通点があったと認識するのはその後しばらく経ってからのことだ。

瞑想については今も謎に感じるところが多く、その仕組みについてもう少ししっかり把握したいと思っている。
認知神経科学、ミラーニューロン、ロボット工学、筋膜など、新しい知見との関連にも注目していきたい。