2014年12月26日金曜日

うつな気分が高まったら


うつ病になって、

気が焦ってしょうがない
やけに苦しい
何もやれる気がしない

という時に私がしてきたのは

1)まず立ち上がる
2)壁によりかかり、深呼吸50回
である。


何かうまいことを自分に言い聞かせようとしても大抵は意味をなさない。

まず、ただ立ち上がる
ゆっくり立つだけ。

次に、深呼吸を始める
息の出入り、腹や胸の動きを感じながらゆっくりと。
吐き出す方を「ふーっ」としっかりやると、リズムがついて集中できる。
「50回するまでは他のことはしない」と決めてやる。

状況を選びはするが、いちばん良かった方法である。
「立つ」ことによって身体に多少の刺激があり、思考のらせんに陥りにくいのがいい。
また真っ直ぐ立つと重力の影響を前後左右に分散させられ、姿勢が楽である。

深呼吸は単純なものだが、それを50回続けることはあまりないはずだ。
やってみれば効果を感じることだろう。
簡単に終わらない回数であれば良いわけで、30回や40回でもいいのかも知れない。


強めの不安に駆られてきたら取り敢えずおもむろに上記をする。
それがおすすめである。



2014年12月19日金曜日

話さない時はいつでも。

 
何日かに一度、仕事で隣町の営業所を回る。
昨日がその日だった。
片道30分、ちょっとしたドライブだ。

車に荷を積んで乗り込めば、それから30分は自分の時間。
冬に固められた田んぼの風景を突っ切る。

交通量は少ない。
携帯に何かかかってくることもあまりない。
エアコンで温まった車内に、身体の下からのエンジン音とタイヤの音だけが響く。


こうした細切れの時間は、リラックスのために最大限活用したい。

シートの上で、肩や腕の高さ・足の伸び・腰の角度などを整える。
視線を前方へ向け深呼吸を続けると、しだいに内面が、心の『力み』や『歪み』を探り始める。


日常を瞑想化することは、きわめて有意義だ。

個別に時間を設けた深い瞑想と、日常を瞑想化した形態の軽い瞑想。
その両輪が必要だ。
人と話さなくてよい時間はすべて瞑想の好機であると私はとらえている。



瞑想の周辺


瞑想そのものでなくとも、瞑想とメカニズム上の共通点を持つと思われるものは色々とある。

皮膚感覚をいきいきさせる乾布摩擦(死語か?)、ゆっくり動く太極拳、使う箇所に意識をとどめやすいゆる体操……etc

何にせよ、身体を感じることが精神によい。

うつ病対策としては激しい運動はNGだ。
一般人のストレス解消のための運動とは、区別しなければならない。

瞑想的にするなら、身体の眠ったところを揺り起こすじがよいだろう。
なるべく全身に意識のスポットライトを当てていき、陰になる部分がなくなるように。



人生「休業中」


うつ病になったら、社会活動は全て「休業」しているつもりで生活すべきだ。
私の名前を「白灰太郎」だとすると、白灰太郎業を全面的に休業中にする。

経済上の理由から止むを得ず働かなければならない場合は、例外的にヘルプでその仕事をしていると考えよう。
家事も同様だ。放棄させてもらえるなら最良、それがムリなら「やりすごす」程度に関わればいいと割り切る。

仕事や家事だけではない。
趣味にさえ手を出さない方が本来は良い。
こだわり等を披露する相手を想定してしまうと、それは社会との関わりになってしまうからだ。

要は、およそ他者との関わりに基づく活動のすべてにおいて、クオリティを追求しないということだ。
高いレベルを始めから自分に課さず、また失敗しても落ち込まないようにすること。

うつ病では、安いプライドにつられて頑張ってはいけない。
自分が「本来」目指すべきことに徹した考えをもつのである。
本来目指すべきことは、言うまでもなく「全面休業」だ。
休めば休むほど良い。

うつ病回復のためには、そのような「社会と距離を置く覚悟」が常に必要になる
人間、たとえ部分的であってもプライドを放棄するのには大きな精神力がいる。
しかし、安い意地を張らずに手を引くことが出来るということは、かなりハイレベルであるとしっかり認識しよう。

「普通の頑張り」が通用しない世界を、「頑張らない力」で乗り切る。
そんなマイナーな戦場で奮闘する人にこそ、エールを送りたいものだ。




2014年12月12日金曜日

運動以外での、身体の力み。


発熱


今月初めに熱を出した。

夜中に上半身が熱くて寝られず、熱を測ってみたところ、38.6℃。
うわ、インフルエンザもらった…と思ったが、しばらくしてもう一度測ったところ37.1℃。
ん?勝手に下がるもんだったか?体の熱さは何となく引いているが…

なんにせよ早めに医者にいこう、と布団の中で考えたが、それにしてもノドが馬鹿みたいに痛む。
体に倦怠感がありインフルっぽいが、うつの倦怠が元々あるのでよく分からない。(←うつ病あるある)
それよりとにもかくにも、ノドが過去最大級の痛みを発している。
ツバを飲み込むたびに、激痛に堪えるために全身に力が入る。
それを繰り返しながらなんとか朝までやり過ごし、時間をみて早々に医者へと向かった。


診療の結果は、扁桃腺炎であった。
大人になるにつれ退化するはずの扁桃腺が残っており、それが腫れやすいとのこと。
こうも腫れたのは今回が初めてだが、とにかく抗生剤などをたくさんもらい、翌日にはずいぶん良くなった。
人に感染るものでもないらしく、ホッとした。


様々な力み


当ブログで何度もふれてきたが、うつ病になると『身体を力ませるたびに体調が崩れる』ということが続く。

指で押してもすぐに元の形に戻るゼリーに対し、私の心は例えれば粘土だ。
押されたところが押されたまま、くせがついて元の形には戻らない。
「足が痺れた」「発表して緊張した」など様々に力んでも、しばらくすれば平常に戻るのが普通だが、私の場合は心と身体に圧迫感や歪みが刻まれてしまう。


こうした嬉しくない暮らしを長年させてもらっているせいで、傾いた体調を戻すことには慣れた。
「直すか…やれやれ」という感じだが、そういう中でも今回のような発熱による興奮痛みへの抵抗などのように、身体が無意識に行う力みによる歪みの把握は難易度が高い。
言わば「運動以外の身体の力み」だが、それらはまず存在自体を見過ごしやすく、また解消する際にも繊細な技術を要する。

これまでを振り返ると、該当するものとして

腹痛、頭痛、モノモライのまぶたの痛み
冬の寒さ・夏の暑さ
満腹
眠さの我慢
飲酒での心身の興奮
海に潜った時の呼吸の苦しさ

などを経験してきた。
そしてそれによって刻まれた内面の歪みを解消してきたのだ。 

ちなみに今回のノドに関連する崩れを把握し解消できたのは、昨日の朝だ。
つまり10日ほどかかっている。

まだ弱い私の心は、いろいろな刺激を受入れてはしばしばフラつく。
簡単に傾かない、安定したレベルに到達したいものだ。



2014年12月5日金曜日

心の構造


「心」を構成しているものは、以下の2つの要素である。
① 身体感覚  
② 頭の中のイメージ映像

身体中を満たす身体感覚(①)の存在は誰もが知っていると思う。
しかしそれが「心」の主要な構成要素だという認識はあまり一般的ではないかも知れない。

それから、「何かを思い浮かべる」という作業。
その際の言わばイメージ画像のような、想起される形(②)。
 
以上、①と②が「心」である。「心」とはこれだけである。
 
 
①のバランスによって②の動きが決められている。
②を意識的に動かす行為が「思考」、逆に勝手に動いてしまう現象が「感情」だが、
それらはともに①の構造の影響下・支配下にある。
すなわち「身体の感覚がどんなふうに分布しているか」が、思考力・記憶力など重要な「能力」を定め、また感情・情緒面など「性格」の主要部も定めている。

言い換えれば、思考も感情も言わば表面的な結果に過ぎないものである。
つまり気にしても仕方がないということ。
身体感覚さえ健全に張り巡らされれば、それらは自ずと適正になる。
よって、自分の能力や性格の質について思い悩むよりも、身体感覚の健全化に注力しなければならない。
(その方法については過去に記載。)


自分の思考(理性・論理)の確かさを過信しないこと。
また、感情に身を委ねすぎないこと。
それら「表層に現れるもの」につい気を取られてしまいがちだが、それらは実は確かな意味を持たず、身体感覚に動きをつけられ漂うだけのものなのだ。


瞑想がもつ力?


瞑想に力はない。

力はあくまで心身に備わっている。


瞑想は、心身の力を正常に引き出すための単なる調整だ。
特別な術ではない。

心身に耳を傾けること。
バランスの崩れも含め、正常反応しか起こっていないということを知ること。

自分の生命力と、それに基づいて完成した心身を信頼しよう。
まずはそこからだ。