2013年12月30日月曜日
「並行」を排除すべし
飲み会などが続いて疲れ気味だったこの頃。
ひととおり終えて一息つき、振り返る。
改めて、「並行」は良くない。
力みの並行。
うかつにも場の空気に身を委ねてしまった。
飲み会は、力みのオンパレードだ。
酔いの身体的興奮+足の痺れ+満腹の苦しさ+人への気遣い…etc
無頓着だったことをしっかり再認識し、さらにそこにあった個々の力みと向き合い直す。
その作業でだいぶ調子は戻った。
「並行」―これは地味であるが、うつ病の改善にとってかなりの難敵である。
日常に無数に身をひそめているという意味では最凶と言えるかもしれない。
色々なことを安易に同時にやってはいけない。
行動は、絞れるなら絞れるだけ良い。
意気込む必要はないが、一つに集中し、急がず、丁寧に。
この習慣は見た目や道徳のためではなく、神経の連携を正常化するためにとても役立つのだ。
2013年12月19日木曜日
釈迦
お釈迦さまの最大の業績は、悟りを得る方法を体系化したことだろう。
その偉業を支えたのは、執念とも言える「妥協しない姿勢」だ。
安易な発散に走ったり、小さな疑問をうやむやにしたり、思いつきをゴリ押ししたり、そういうことを釈迦はしなかった。
つまりゴマ化さなかったのだ。
真に腑に落ちる結論に達するまで、自分の心と身体の声に耳を傾けつづけた。
科学的思考に慣れた現代のわれわれの耳には、仏教の話はどうしても多くの部分が非日常的に聞こえてしまう。
しかし釈迦が本来示したのは言うまでもなくスピリチュアルな話題などでなく、きわめて実践的で、徹底的に現実に即した技術だった。
だから私は思うのである。
仮に釈迦が今日まで生きていたら、教義を違うかたちに変えたのではないだろうか。
解剖学や生理学などが発展し、神経に電気活動があることが証明されたのは、19世紀のことだという。
釈迦には、先入観も、「仏教」へのこだわりさえ無いだろう。
必要な知見を取り入れ、教義を少しでも明解なものにすることをどこまでも押し進めたはずだ。
釈迦の教えに固執することは釈迦の願いから逆に遠ざかることになりはしないだろうか。
釈迦は誰よりも人の世について真剣に考えた人間なのである。
2013年12月7日土曜日
無明
仏教の十二縁起で、「無明」(=無知)により、次の「行」(=原始的反応などの潜在的な形成力)が生じると言われる。
まず無知であることからその後のうろつきが始まるというわけだ。
これは説明としてやや物足りない。
と言うのは、無知であってもそのまま永遠に何もしなくても構わないわけである。
そうせずに踏み出す理由が最低限必要だ。
食べ過ぎの原因を考察するにあたっては、「適切な量を知らないためである」で終わりにせず、どういう時に何を食べたくなるか、なぜそうなるか、を把握するのが通常だ。
無明からのうろつきにそういう意味はないと言われれば、そこは結局暗黙に従うしかなくなってしまう。
私は無明というのは、始点というよりも縁起の全体に介入して各「因縁」間の盲目的・自動的な連鎖を支えているものなのかなと思う。
つまり十二縁起の直線上のものではないということだ。
2013年12月2日月曜日
2014年 ダイアリー
高橋書店『ニューダイアリー9』
去年のダイアリーはA4リングタイプにしたが、理屈に捉われすぎたか、しっくりこず。
(なんとなく危険な香りはしていたが。)
やはり黒いビジネス手帳に戻してしまった。
2014年1月始まり No.72 ニューダイアリー 9
価格:945円(税込)
説明不要と言いたいところだが、この『ニューダイアリー9』、私の住む田舎ではなかなかにレアなのだ。
手にとって眺められる機会が少なかった腹いせ?に、ここで少し紹介する。
マンスリー
月間ページはブロック式。
土日を上下に重ねることで、各曜日の幅をある程度確保している。
スペースは広いとは言えないが、用件名と時間しか書かない私はこと足りる。
ウィークリー
メモページ
その他
厚さも丁度いい感じである。
スマホも便利だが、「製本されたもの」の佇まいは好きである。
2013年11月26日火曜日
「歪み」の特徴
ヴィパッサナー瞑想をすると、「神経の歪み」を直していると感じる。
そもそも歪みがない人は、やっても変化はないだろう。
歪みが5つある人は、5つ直せば終わりだ。
「歪み」の増殖
心の歪みが厄介なのは、それが増殖する点だ。
始めに歪みが1つできると、そのあと身体を不用意に力ませるたびに新たな歪みがつくられる。
①歪み + ②身体の力み → ③新たな歪み
という具合だ。
②の種類により、続く③も様々である。
また、同じ②という行動も、その前段階にある①によって様々な種類の③を生むきっかけになる。
「歪み」の解消
歪みは、基本的には直近にできたものから解消されていく。
③が解消されても、①の重苦しさが残っているため、進んだことに気づけないことも多い。
進捗を顧みずに黙々と続ける「待ち」の心構えも不可欠だろうと思う。
何度も巡るしかない
歪みというのは、人それぞれのそれまでの経験や習慣に応じ、複雑・多層的に広がっている。
精神や肉体の観察を何巡もおこない、偶然の力も借りつながら少しずつ発見していくしかない。
とにかく続けることが重要なのだ。
その道は長く感じられるが、人間の一日、一ヶ月、一年の活動はだいたい似たことの繰り返しであり、これまで全ての過去も、頭のなかで回想できる早さや効率を考えれば大した量ではない。
つまり気が遠くなるほどの作業ではないということだ。
不慣れなために長大に思えるが、毎日頑張ればそのうち終わらすことができる。
2013年11月22日金曜日
瞑想の役割を考える 2
瞑想で「悟りを得る」必要はなく、「健康」を手に入れれば十分、そう言ったのが前回だ。
ならば瞑想は病人だけがすればいいものかと言うと、そうではない。
みんな、誰もがすべきものだと思う。
人が不健康になりにくい「世の中」を作るためにである。
人が不健康になる世の中である。
―自分より幸運な者がねたましい―
―自分だけ損をするのは絶対いやだ―
そんな貧しい風潮が世間を覆い、ともすれば建設的な議論よりもストレスのはけ口探しが優先される。
日常のいたるところに不健康の種が潜み、もはや世間は何が正しくないかを見分ける力さえ失ったように見える。
自らの心を健康にしてくれるものを支持し、そうでないものを手放すセンス、それは今の日本に最も欠けているものの一つではないだろうか。
「心」の健康にとって必要なものを知り、それに基づいた行動を皆が自然にとれるようになることに、瞑想は役立つだろう。
瞑想を通して社会は「心」についての理解を深めることができる。
いつの時代も世の中は不平等で、未来は不明瞭だ。
誰にとってもそうだ。
だからこそ、望まれるのは常に前向きでいられることだ。
みんながそんな風にいられる世の中を目指さなければならない。
超越などしていなくても、いやむしろ限界だらけでも、それでも伸び伸びと努力できる環境を作りだすこと。
それこそが最もハイレベルだと言える。
そんな境地に到ることができたら、人間は少しばかり胸を張ってもよいと思う。
あくまで自然に自分らしさ(=人間らしさ)を高めたことになるのだから。
2013年11月12日火曜日
瞑想の役割を考える 1
悟らなくていい
ヴィパッサナー瞑想を本気で訓練すれば、いわゆる「悟り」に達することが可能だろう。
だが私は人間に「悟り」が必要だとは思わない。
人間は神様でも何でもない。
ほかの種を差し置いて、人間だけ特別な領域に到達すべき理由はない。
あたりまえの話であろう。
生き物であれば争いごとを完全に無くすのは困難だろうし、ここまで高度な知性を持てば、複雑な社会を形成しストレスに遭遇することも、言わば宿命的だろう。
性(さが)を無視しようとしても、その行為の多くは非効率である。
むしろそれを前提に据え、うまく周辺を整えるのが正しい。
不安定も、抑圧も、そこから生まれる物語も、芸術もすべて受け入れて、人間は「人間らしさ」を全うすればいいだけだ。
特別なことはしなくていい。
「健康」であれば十分
悟らなくていい。「健康」までで十分だ。そこまで瞑想は役立てられればいい。
そこからは「健全な生命力」を最大限に活かすだけである。
2013年11月8日金曜日
瞑想と筋トレ
ヴィパッサナー瞑想をすると心の病気が治ったり、性格が良くなったりするのはなぜか。
それは単純である。
病気になった時や性格が悪くなった時と逆の現象を身体に起こすからだ。
スポーツや音楽に触れたらうつ病が治った、人との出会いで性格が明るくなった、などのケースと、起こることの本質は同じ。
そういったときに生じるメカニズムを単独で意図的に起こすのが、ヴィパッサナー瞑想である。
スポーツや音楽があらゆる箇所を修復するとは限らないので、網羅的に心身を探る。
柔道家などが脱臼した骨を自力で『はめる』ように、神経の働きが歪んだ箇所を自力で戻していくのだ。
しかしながらヴィパッサナー瞑想は何とも似ていないため、言葉で説明されてもなかなか腑に落ちないと思う。
人間と言うのはすでに知っている情報から類推するしかないので、
「雑念を一時的に気合で締め出しているだけではないか」
「いまここ、が重要なことくらい分かる」
「宗教懸かっていて、真剣にやる気がしない」
「観察すると苦が減るというのは飛躍に感じられる」
などの疑問が生じるのは自然だと思う。
けれども残念ながら、瞑想の仕組みについて生理的な説明を尽くすことはやはり今のところ難しいのではないだろうか。
私の場合は、これを筋トレと同じようなものに位置づけている。
筋トレしたことのない子供に、「重いものを持って腕を曲げ伸ばしすると腕が太くなって力も強くなるらしいけど、なんで?」と訊かれたら、うまく答えられるだろうか。
私達は、筋肉じたいが太くなる様を知らないし、だいたい筋肉そのものを観察したこともない。
脂肪が燃えるとは?筋繊維の何が太くなるのか?
さらに、腕力が強くなるということの説明になると、なお難しい。
ほとんどの人が「とにかくこうやると、こうなるのさ。」としか言えないはずだ。
しかしそうした医学的な理解のあいまいさと対照的に、「負荷を感じなければ効かない」など、筋肉を鍛える「正しいやり方」についてはよく知って納得している。
この理由は、「自分でやったことがある」し、「みんなの常識だと思っている」からだ。
筋トレは「体験」され、「信用」を獲得している。
私にとってヴィパッサナー瞑想は筋トレと同様だ、「分からないところはあるが、信じている」。
私個人の内では「体験」が強力に信憑性を示し、「信用」を確立した。
この瞑想が、必要とする人のためにもっと広く深く、世の中に根づくことを願っている。
どうすればその日が早く来るか、ひとり妄想(瞑想ならぬ)してしまうのである。
2013年11月6日水曜日
ミドリ『CL メッシュペンケース 』
マニアとは言えないし所有しているモノも多くないが、文房具は好きである。
ネタを思いつくままに。
今日もささやかな文具ネタ。
税込¥378-
AEONの文房具売り場にて入手。
2013年11月5日火曜日
幼少期の人格形成
私は小さい頃から人の目が気になる性分であった。
成長とともに属する社会が複雑化するにつれ、その傾向は強まった気がする。
社会人になり世の中を少し見渡せるようになれば多少緩和されてくるかと思っていたが、私の場合そうはならなかった。
ところが、ヴィパッサナー瞑想をするようになった今、それが落ち着いている。
これまでで最も穏やかと言っていい。
このことから私は、ヴィパッサナー瞑想はかなり初期に固まった人格の部分にも作用すると感じている。
人格形成とは、どういうメカニズムで起こるのか。
幼少期における”三つ子の魂”の形成と、それ以降の(経験や病気などによる)性格の変質などとの、共通点と相違点は。
興味が尽きない。
2013年10月30日水曜日
PILOT『ジャストミート スリム』
ヴィパッサナー瞑想の準備
会社での昼休み。
私がいる部屋には、めったに人が入ってくることがない。
まとまった一人の時間。
瞑想をするのに適している。
ヴィパッサナー瞑想への入り方
①サマタ瞑想から入り、その後ヴィパッサナー瞑想に移行するべき
②始めからヴィパッサナーから入るべき
ヴィパッサナー瞑想の始め方については、上記の2種類の考え方がある。
②は、ヴィパッサナーから入ってもどの道サマタの精神状態を通るので、特にサマタから入る必要はないということらしい。
始めるときのコンディション
①と②どちらが良いかについて、私は「直前にしていたことによる」と思う。
直前も静かに落ち着いていたなら、ヴィパッサナーから入っていいと思う。
しかし、直前まで仕事や運動など何かをしていた場合、ヴィパッサナーからは入りにくいことがある。
ヴィパッサナー瞑想は力むものではないとは言え、一定の集中が要る。
「力まずに研ぎ澄ます」感覚に持っていくには、コンディションを整える必要があるだろう。
直前の「力み」の余韻はジャマになる。
サマタ瞑想の効果
サマタ瞑想では、まず「粗い歪み」を解消できると思う。
それをせずにヴィパッサナーから入ることも可能だろうが、それだと始め「苦しい」ことがある。
私はその感覚が好きでないので、まずはサマタで安定させている。
そんなに時間はかからない。
大きなゴミを拾ってから、きれいな道を歩く感じである。
そのあとは感覚を追ったりしやすくなる。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の境目は、感覚として確かに曖昧だ。
サマタの最中にヴィパッサナー的なことも起こるだろうし、ヴィパッサナーにはサマタが内包されていなければならないようにも思う。
まあ名前や区別はどうでもよいことかもしれない。
コンディションづくり
上手くやろうとしてはいけないヴィパッサナー瞑想であるが、上手く出来ていない状態はやはりある。
そうなって「調子悪い」だとか「もっと上手くやろう」だとか考え始めないよう、事前のコンディション作りには注意を払いたい。
2013年10月12日土曜日
うつ病に対する思い違い
うつ病の「無力感」
うつ病では、強い「無力感」を経験する。
身体や頭が痛む・重い、仕事などが上手くできない、
それら自体は、100歩ほど譲ってまだいい。
それらを「どうにもできない」、ここが精神的にくる。
努力というものを発揮できないのだ。
しかも何とかしようと力むと、そのたびに体調が悪化する。
まさに手も足も出ない。
思い違い
自らが罹るまで、うつ病というのは漠然と自信がなくなって死にたくなる病気だと思っていた。
自分がなって分かったのは、大した根拠なくネガティブになるわけでは決してないということ。
生活のあらゆる場面で基本となる「考える」という機能が、全面的に崩壊するのがうつ病である。
これまで当たり前のようにやっていた「物事を考える」ということが出来なくなる。
ごく単純なことさえだ。
そこから被るストレスは、「自信を失う」といったレベルではない。
自己の最大の拠り所である「 自我」の安定を著しくことの不安感というのは、原始的にしてある意味究極のもので、社会的・物質的なものを失う恐怖とは異次元である。
体験した人にしか分からないかもしれない。
為す術がなさすぎて、逃亡したい欲求に頭が支配される。
「気にしすぎだよ、ちゃんとやれてるよ」と言われたりするが、いやいや、色々なことにそれこそ必死の注意を振り絞ってやっと6割ほどに漕ぎつけているのだ。(6割ならまだいい方である。)
そしてふと気づくと、そのがんばりの力みにより更なる体調不良が引き起こされていたりする。
この状態が続く。
この先いつまでやっていけるのか不安が募り、疲弊し、しだいに「無力感」に屈していく。
それは、そうである。歴然と「無力」なのだ。
うつに苦しむ人は、むやみに死に惹かれたりしない。
生を断念せざるを得ないと考えてしまうほど、直面している問題が深刻なだけである。
瞑想を知ることがなかったら自分は死んでいたかもしれない、と本当に思う。
2013年10月7日月曜日
セブンライフスタイル『糸とじノート(S)』
2013年10月4日金曜日
ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 3
心の有り様は、構造がすべて。
人間の心というのは、何もなければ本来、軽やかで明るいものだ。
その方が自己の生命にとって好都合だからである。
悩みごとが少なく、より楽しいことが多いほど、「私」という生命は力強さを得て未来に向かって進む(繁栄する)。
極力、人生を楽しもうとするのが、本来の心の姿であるはずだ。
よって心が暗いのは、本来の状態からみればどこか歪んでいるはずなのだ。
理屈もなにもない。
うしろ向きな“雑念”は心の歪みから自動的に生じてしまうものであり、理性で統制するものではない。
自分を嫌わずに心を正しい構造に直せばよいだけなのである。
構造の「歪み」を取る
心の「歪み」は、どのように形成されるのだろうか。
私の経験では、心は考え事をしながら身体を使うことで歪む。
そしてその時に使われていた身体の部分の感覚を思い起こしてやることで、その「歪み」は解消していくことができる(→前回の記事「ヴィパッサナー瞑想の私的解釈(2)」)。
「歪み」は有限
ところで、注目すべきは、心は均一に濁ったりするものではないということ。
「心」や「性格」というのは、その人の「外界への反応」のうちの「特徴的ないくつか」を自他が把握したものにすぎない。
どんな変わった人にも、良くも悪くもないところ、気に留めていないまともな部分などもたくさんある。
おかしいところは、一部なのである。
問題は有限なのだ。
希望を持ってそれらを一つずつ直していけばいい。
有限とはいえ。
しかしながら、自分の心にどんな歪みがあり、どの順序で直していくべきかといのはちょっと分からないものだ。
したがって、ハズレも覚悟で全身をシラミ潰しに整えていくことになる。
それが、瞑想で「全身の感覚を感じよ」と指導される背景とも関連してくると思う。
理論上は各人ごとの無駄がないルートが存在するだろうが、それを始めに見出すのは聖人でさえムリだろう。
地道に試していくしかない。
実際にやってみると、かなり強力な歪みが他のルートを通った後にはあっけなく解消されたり、進歩していることに全く気づけなかったり、その道のりは予測しづらい。
なので、同じところを何度も通ってみたりする必要もあるだろう。
楽になる日が来ることを信じて、とにかく根気よく続ける。
それが何よりも必要なことである。
2013年9月13日金曜日
苦しみに誇りを持つ
2013年9月9日月曜日
空(くう)
高校の授業
昔、学校で以下のように習った。
「上座部仏教は個人の解脱をめざすもので、それに対し大乗仏教はみんなで救われましょう、というものです。個人主義的で厳しい修行をともなう前者に対し、後者は人間をありのままに受け入れ、みんなで仏の道に従えばいいという考えです。日本に伝わって信仰されているのは、後者の方です。」
そう聞いて私は「上座部仏教というのは、自己中心的でイヤな感じだ。日本は大乗仏教を取り入れて正解だったな」と思った記憶がある。
その授業をした教師も同じように思っているような口ぶりだった。
空(くう)の概念
大乗仏教といえば、「空(くう)」だろうか。
すべては縁により移り変わり、不変なものなどない。
とらわれることの無意味を知り、すべて受け入れ、縁にゆだねる境地へと至るべし。
しかし、「空(くう)」の発見というのは単に人間の知的欲求を満たしただけではないだろうか。
その概念を用いていかなる有形な主張をも論破できようが、口論で敗けないことにさほどの意味はない。
空(くう)と瞑想
ヴィパッサナー瞑想に対しては、「観察する」という行為が自他のギャップを強めており、それは「主客未分」という真理に反している、という批判がしばしばなされる。
「存在とは完全に不定なものである」という原則に則れば、自分と観察対象とをそれぞれ定まったものとして分けて扱うヴィパッサナー瞑想はおかしいというわけである。
こうした指摘に対し、私は何となく違和感をおぼえる。
「空」に始点や程度があることをその指摘自らが認めた形になっている気がする。
また、イメージや考え事を多少固定的にすることは、「空」性に反することとまで言えるのか。
「空」の完全性を前にして、瞑想中に「空」っぽくないイメージを抱くことがどれほど良くないことなのだろう。
そもそもだが、瞑想によって到達しうる感触が実質の「空」と同質のものなのか、その証拠はない。
同様のことは、こうしたジャンル全般に言える。
例えば上座仏教のヴィパッサナーでも素粒子の生滅を体感すると言われるが、そのとき感じたものが本当に素粒子であることを知る術はない。
人間が行ける範囲
「空(くう)」や「真理」は、人間にはたぶん関係がない。
と言うか関係あるとする必要がない。
人間は五官で感じ取ることの中で生きており、ゆえにその辿りつける最上の境地は「五官や自律神経の最大の健康」だと思う。
ちなみにややこしくなるが、理論の細部はともかく技術的にそれを実現できるのが、上座仏教のヴィパッサナー瞑想だ。
上座部仏教と大乗仏教、どちらがよいのか。
世界観や教義などに重視すべき差はないと思う。
ただ、上座仏教が伝えるヴィパッサナー瞑想には、ほかの何物にも代えがたい価値がある。
これを批判する人は、おそらくヴィパッサナー瞑想をちゃんとやったことがないのではないかと思っている。
2013年9月8日日曜日
普通の油性ボールペン
JETSTREAM以降の低粘度インクの油性ボールペンよりも、昔からの油性インクが好きだ。
ムラのある線が「呼吸」をしているようで良い。
ベタッと均一なのは息苦しく、なんとも詫び寂びがない。
(PILOTのA-inkも孤高で格好いいが、私にはスムーズすぎる)
ついでに言うと、水性顔料などのやたら滑るインクも苦手だ。
ペン先の走りが、私の「書く意志」を越えていく。
先に行かないでほしい。
(追記2013.9.10:PILOTのA-ink芯が2011~12年くらいにアクロインキへ変更されていたことを投稿時には知らなかった。もう孤高ではないようだ。)
2013年9月6日金曜日
悟り 1
「悟り」と言われるものの一端を垣間見たことがある。
その状態は一ヶ月ほどで消えてしまったのが。うつ病になる前の話だ。
世界がとても静かだった。
不安や後悔というものがなく、必要なことに必要な順序で自動的に集中力が向けられる。
雑念が入ってこず、最小限の力で対象に焦点を合わせることができた。
ものごとの良い部分が心に入ってきた。
普通の人の優しさ、一生懸命さ、美しさ、格好良さ、その人らしさ。
普通の景色の平等さ、やさしさ、強さ。
普通の食べ物の美味しさ、力強さ。
悪いものは心が捉えず、したがって自然に流すことができた。
身体が軽く、全身が少し痺れたような感覚で満たされている。
どこにも力は入っていなかったが、どちらの方向にも素早く、最短距離を、やはり最小の力でブレることなく動けた。
視線は外の世界全体にゆったりと向けられていたが、目の端でなにかの小さい動きまでとらえることができた。
数秒先の情景が、あらかじめ見えるようなこともあった(経験から予測できる情景を、頭が描いたものと思われる。それが時々、目の前の実際の情景に先行する)。
よく分からないが、鼻の少し上あたりを軽くつままれたような感覚があるのが特徴的だった。
良くない点として、集中力が使われすぎているためかすぐに眠くなった。
無我の境地
アスリートが経験するという「ゾーン」や、武道家が目指す境地という「脱力」などの言葉がよぎる。
自分が、感覚だけの存在、または単なるエネルギー体になってしまったような不思議な感覚。
人間の強さや弱さ、自由というもの、人間の能力と言われているもの、人格と言われているもの、信仰、争い、善と悪、そういうものがどうなっているのかを感じ取れた。
恍惚感というより、ただ広がる静けさが印象的で、とりたてて語るべきことや示したいことが無く、自らが寡黙になったと感じられた。
広がった世界
しかし、その状態は、ある日些細なことをきっかけに去った。
私はあれを完璧だったと言うつもりはない。
「真理」等に話を飛躍させるつもりもない。
ただあの時の眺めは私の心にささやかな片鱗を残し、ひとつの依りどころとなっている。
感受というものに関する認識を深めてくれた、興味深く、貴重な体験だった。
2013年8月31日土曜日
お互い様
うつ病の人は、少し立ち止まって考えてほしい。
うつ病周辺に存在する最大の問題は、「本人がとても苦しい思いをしているということ」だ。
その重大さ・悲しさに比べたら他のことはちっぽけである。
病人が周囲に与える実害など、ごく小さいのだ。
「不適切な言動で迷惑をかけている」と言うなら、それをやってない人間のほうが圧倒的に少数だ。
個人が与える迷惑なんて、たかが知れている。
自分がこの世にいない方がいい、なんて、そんなことはないのだ。
そう思いたくなること自体が症状にすぎないと、傍観してほしい。
この世にいない方がいいほどの悪など、そういない。
みんな迷惑をかけ合って、「お互い様」でやりすごして生きている。
自分がいない方がいい理由などどこにも存在しない。
ただゆっくりと治すことを考えればいい。
2013年8月30日金曜日
ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 2
自分の身体を留守にする
人それぞれ心の形はちがう。人によって性格が違うし、同じ人のなかでも経験などにより性格が変わることもある。その、「心の形作られ方」について、思うことがある。
すべて私の心身を通した経験則、感覚の世界の話になってしまうが。
1 心に「形が付く」とき
「他人の立場になって考える」―日常よくあることだ。
知人Aさんの立場になって「私」を好意的にながめたり、あるいは同僚Bさんの目線でCさんを白い目で見たり、そういったことだ。珍しい行為ではないと思う。(個人的には「考えごと」はこのような行為が多くを占めるもののような気がしている。)
言ってみれば、ちょっと自分の肉体を留守にして他人の身体に乗り込むような、他者の内面にシンクロするような行為。この行為をすると、自分の五感や身体感覚が少し「ないがしろ」になる。身体感覚の意識がやや希薄になるのだ。
この「主体の留守」による身体感覚の無頓着が強度に生じると、心の構造変化が起こる。
そして変化したまま固定される。
心はそのようにできているようだ。
2 心の変形を解除する
上記の変化を解除するにはどうするか。
歪んだ時の状況を思い出して、その時にないがしろされたであろう身体感覚を想像する。
「あったであろう身体感覚を思い出す」というのは普段しない難しい作業であるが、それをすることでコンディションを一歩ずつ戻せる。
3 瞑想とは
ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスというものは、端的に言って上記2の作業なのだと思う。
身体感覚を過剰に偏らせたことにより失った、内面の統制機能を回復させる作業。
心は身体感覚でできているのだ。
その作業が上手くさせるために、仏教の諸々の教えがある。
「今ここ」、「穢れ」、「真理」、「空(くう)」など様々な理論は、集中力を高めたり習慣化を支える上で有効に機能する「イメージすべきコツ」であり、実際に身体内で起こる変化などの事実とは直接に関係はないと思っている。
2013年8月19日月曜日
ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 1
身体に影響をうける心
うつ病が発症してから何年か経った頃。
私はとらえどころの無いメンタルの崩れに翻弄され、自我を保つのに精一杯な日々を送っていた。
ネガティブな思考をスルーするコツは覚えつつあった。しかし何かをきっかけに、いつの間にか心のバランスを崩し、なんとか持ちなおし、また崩し、の繰り返し。焦りは禁物と自分に言い聞かせてはいたが、一体いつになったら抜け出せるのか、毎日不安で仕方がなかった。
そんなある日、ふと次のようなことに気がついた。
「同じような体勢をしたあとのメンタルの崩れ方が、毎回似通っている」
身体の扱い方とメンタルの崩れとの間に、なにか関連性がある気がしたのだ。「体勢」や「身体に触れるものの硬さのちがい」などと体調の関連に思いあたるふしがあった。重要なヒントに突き当たった予感がした。
それから、メンタルの崩れに繋がる身体の使い方を発見したらメモをし、以降そのやり方をしないようにできる限り心がけた。体調はあいかわらず不安定ながら、少しずつ身体面への注目を始めたわけである。
それから、果たして私の体調は確かなペースで回復していったのだった。劇的とは言えないまでも、その効果は少なくとも心理学を学んだり医者に通うよりも遥かに高い確実性・再現性を持っていた。
コンディションに翻弄され一喜一憂しながらヨタヨタ歩いていた私が、初めて自主的に管理・検証できる要素を得て一歩ずつ歩み始めたのだ。
そしてその手応えは、私を精神的にも少しずつ前向きにさせていった。
身体で心を統制する
私は身体のあちこちの痛みにも悩んでいて、それらのことは「心が治れば自然に収まるだろう」くらいに考えていた。
しかし、身体は病気に振り回されるものではなく、症状を管理するために起点として活用すべきものだったのである。
コペルニクス的転回とも言うべき、まさに発想の転換であった。
さて、そんなわけで「メンタルに影響する身体の使い方」を探し始めわけだが、その結果わかったのは、驚くべきことに「力むこと全てがNG」という事実であった。
例として、
①筋力系
・長時間イスに座り、疲れてきても腰や背中の筋肉を使い続ける
・長時間歩いて、疲れてきても足を休ませない
・無理な筋トレ
②圧迫系
・机にヒジや二の腕を長時間つく
・イスの座面にももの裏が長時間あたる
・きつい靴や服、ネクタイなどを長時間身に付ける
③その他
・体のどこかの関節を曲げてスジが伸び続ける
・満腹
・ケガをしてその痛みに耐える
・長時間息を止める
・飲酒し興奮する
などなど。
言ってしまえば「脱力以外すべて」であり、もちろん上記以外にも無限に近くあるだろう。
生活パターンは人それぞれなので、決まったものを覚えこむ必要はない。とにかくあらゆる身体的活動を、力み(疲労)を感じた時点で切り上げる、もしくはなるべく力まない体勢・やり方に変える。
腕も、足も、胴体も、骨も、筋も、もっと内部も。
それができれば、体調は悪化しにくくなる。
活の中では限界はあろうが、とにかくできる限り身体にかかる無理を少なくするようにすることだ。
そして、そのように身体面に気を配り続けること自体が良いのである。これが大切なことだ。
所謂「マインドフルネス」寄りの過ごし方となる。
「心の病」
うつ病などは「心の病」と称されること多いが、心だけの病気というものはない。
この呼び方が、身体面へのアプローチを盲点にしている。病気になる前は当たり前だった身体操作が、うつ病下ではコンディションを狂乱させる要因となるのである。恐ろしいことだと思う。
心の病気を治すには、敢えて身体から入るべきというのが真実なのだ。
心の在りようは、外から眺めていても必ず限界につき当たる。またどんなに「いい言葉」も、その効果は一過性のものだ。それらの限界を突破するのは、身体感覚へのアプローチだけだと思っている。
ヴィパッサナー瞑想との出会い
上記のような時期を経てから、今から半年ほど前にヴィパッサナー瞑想に出会った。身体面に注目する体系を見て、私は瞬時にその有効性を確信した。
もっと早くに出会いたかったが、過去の私には理解できなかっただろう。
ともかく、心を操縦するためのハンドルは身体にある
そう確信している。
うつ病
発症
8年ほど前に、うつ病が始まった。
ヴィパッサナー瞑想に出会うまでの7年半は、希望の光のおぼつかぬ日々であった。
「理解力・記憶力・判断力の著しい低下」
「頭(後頭部)・首・腰・背中・腕などの突っ張るような痛み」
に苦しんだ。
思考が固まったかのように働きを止め、いくら頑張っても「理解する」「記憶する」「判断する」などのやり方を思い出せない。
また頭と身体のあちこちに突っ張ったような痛みが居座り、何とも言えない身体の重苦しさに支配されてすべてが億劫になる。
さらによくしたもので、踏ん張ろう、何とかしようと意識すると、その力みによってさらに体調が悪化する。
それまでの経験の中から対処法をまったく見いだせない状況に、心底恐怖した。
朝には治っているのでは…と淡い期待をよせて布団に入るも、その願いは翌朝見事に打ち砕かれる。
―俺は頭がおかしくなって死ぬのでは?…
―まさか、こんな運命が待ち構えていたとは…
楽な人生を歩んできたつもりもなかったが、目の前の現実から逃げ出せるならなんとありがたいことかという思いを重ねる日々であった。
仕事は続けた
仕事は続けた。当然のごとく業績は芳しくなく、みじめさに焼かれるようであったが、「今は、治すことに専念する。健康な人と張り合わない。私は私の道を歩む。」と自分に言い聞かせ、騒がぬようにして過ごした。
いまにして思えば「早く休めよ」という感じである。
しかし、問題の実体が把握できていないこともあり、なかなか手が打てなかった。うつ病にかかっていると判断することにさえ数年かかった。当時はうつ病で「身体が痛む」とは一般的に言われておらず、私は他の何かだと思っていた。
仕事を休むことで期待できる回復、復帰後の皺よせ、そもそも一度休んで再び自分は立ち上がれるのか…諸々の要素を整理して決断することができなかった。
思い切って休暇をとるべきか否か、それ自体が私の手に余る難題だった。
医者に通ったけれど
医者に通っても「ややマシか」と思える日が極めて稀にある程度で、全体的に回復している感じが全くしなかった。そもそも「気のせい」と片付けられ混乱を深めるなど逆効果だったりもした。(そういうふうにして正しい把握が遅れる)
辛抱して通った所もあったものの、けっきょく負担がまさっていると判断し行くのをやめた。
現在
いろいろを経た今、完全に回復したとは言えないながらも、かなり落ち着いている。振り返ると、とくに初期などは回復と逆方向に突っ走ったりなどしてまったくヒドかった。相当な遠回りをしたものだ。
現実だとは信じられないくらいに孤独でつらい日々もあったが、結局どんな時も「いかに自分の道を歩むか」に尽きる、という大きな、しかし当たり前のことを学べたことは良かったと思う。
2013年8月9日金曜日
道徳教育
2013年7月27日土曜日
読書感想『減らす技術 The Power Of Less』
レオ・バボータ (Discover21 2009/8/5)
2013年7月24日水曜日
うつ病とヴィパッサナー瞑想
鬱病にヴィパッサナー瞑想は効くか?
効くと思う。私の経験では効いた。無理のない形で取り入れるのがポイント。
私自身、長年うつ病の症状(理解力・記憶力・判断力の著しい低下、頭痛、首・腰・背中・腕などの突っ張るような痛みと疲労に似た重苦しさetc)があったが、現在かなり緩和している。
症状の改善とともに体調のコントロールの仕方も身に付いてきているので、気持ちのゆとりと希望が持てている。
気をつけるべき点
うつな人が注意すべき点は、すべて完璧に実践しようと思わないことである。「健康になりたい一般人」と同じ意気込みでいってはいけない。
うつ状態でできることは限られるからだ。
やり始めの時期におすすめ
① 深呼吸し、空気の出入りや、胸や腹の膨らみ・縮みの感覚に集中する
② スローモーション(動作をできるかぎりゆっくり行い、そのときの身体の感覚に注目する)
③ 歩く瞑想(歩きながら「右足」「上がっている」「地面に着いた」など動作と感覚に注目する)
慣れたころからおすすめ
④ 立つ瞑想、座る瞑想
⑤ 全身の身体感覚をスキャンしていくように感じとる
⑥ ラベリング(自分の肉体・精神すべての活動を心のなかで実況中継する)
個々のやり方の詳細は、関連書籍などを確認して頂きたい。
上記は一例ではあるが、とにかくうつ病の人が始める場合は
● やり方が手軽
● 効果を実感できる
ものに絞ることが大切だ。
⑥などは有名であるが気ぜわしくなりすぎることがあるし、⑤なども時間を要するため厳しいのではないだろうか。
部分的でもよいので、やれるものから無理せず取り組むことが大切だ。
余談
私はつねづね、ヴィパッサナー瞑想が1.聖人をめざす人むけ:「悟り」コース
2.一般人むけ:「豊かさ」コース
3.不健康な人むけ:「健康」コース
のように分けて示されればと思う。
2や3を必要とする人が偶然に1レベルの厳しさに触れ、ついていけずにやめてしまったりするのがあまりにも勿体ない。
この瞑想が世の中で活用されないのは社会にとって大きな損失だと思っている。
2013年7月19日金曜日
本能
理性
「他人に迷惑はかけられない」
「あの人達を悲しませたくない」
私達は「理性」というものによって後ろめたさを感じたりして、道を外れぬように踏みとどまっている。
「理性」は原始的で欲求まかせの「本能」と対極のものとして扱われることが多い。
けれども「理性」を重んじることで得られるものは、「生き延びる安心」に他ならないと思う。理性的であれば社会から問題視され排除されることが少なくなるからだ。
排除されることは孤立を意味し、これは社会的生き物である人間にとって命の危機にも繋がりかねない状況だ。
だから人間は、死にたくないから、生き延びたいから、排除されぬように「理性」を示し合う。
そのように「(生存)本能」に命じられているのだ。
そう私は思っている。
つまり人間の「理性」は、本能の対極ではなく同源、いや同一のものなのだ。
全ては本能
理性さえが本能である。
そう考えて世の中を見渡すと、人間は本能以外の実に何物も持ち合わせていないように思えてくる。人間の活動のうち、「危険の回避」または「安定の追求」と言い換えられないものがあるだろうか。
愛も絆も、勝ちに拘ることも、逆にフェアに拘ることも、
疲れことも、逆にそこで頑張ることも、
…全てがそうだ。
あらゆる生き物は、「生命」を守るために必要なことだけしている。
それぞれが環境などの違いによりやらねばならないことが異なるだけであって、人間も例外でない。
人間も専ら「生存」しているだけであって、その活動の中に高尚なものなどないのだ。
快楽は悪?
人間は、ただただ本能の塊である。
われわれは全存在を、生存・繁栄のみに向かわせている。
そこに目を向けると、ちなみにだが宗教などにおける「快楽の否定」が気になってくる。
「楽しい」と感じる機能は、人間にとって明日の繁栄へ向かうための、極めて重要な原動力だ。
真に必要な物を手に入れた時に、われわれは快感を得るように作られているのだ。
「快楽は穢れ(けがれ)である」と言われると、特に日本人などはストイックな方向へのカン違いをしやすいと思う。
快楽のすべてを「無用な執着」と見なしてはいけないと思うのだ。
2013年7月16日火曜日
野田サトル『スピナマラダ!』
2013年7月12日金曜日
気休めの救いに終止符を
ヴィパッサナー瞑想を一言で表すと、
神経系を整えることで「性格を変える」訓練法
だと思っている。
「性格を変える」という点が最大の特徴だ。
瞑想している時だけ気分が良くなるというものではない。
「分かっちゃいるけどやめられない」というように、習慣化された感じ方・考え方などいわゆる”性分”を変えることは、些細なことであってもきわめて困難だ。
「気をつけ続ける」ことはできるが、実質的に「変える」のはなかなか上手くいかないものだ。
しかし、世の中には(私もそうだが)性格を何とかしないと「生活に差し支える」場合というのが実際にある。
そういう人は、ぜひこの瞑想を試すべきだ。
一過性の「気休め」でなく、直接的に心の整備に取り組める稀有な方法だと思う。
「うつ病」を始め、有効な治療法がないと言われてきた「境界性人格障害」などに対しても、この瞑想に関連する療法のエビデンス(有効性の証拠)が確認されているという。
また、病気とまでは言えない「性格の悩み」に対しても、効果を発揮するだろう。
仏教がルーツにあるが、技術的には独立したものなので教義などと直接は関係なく実践できる。
瞑想というとどこか「得体の知れないもの」というイメージがつきまとう。
しかし、「生きているのがつらい」人間を実質的かつ健全に救うものであるなら、それが子供が考案したものや歴史が浅いもの、さらに瞑想よりも突飛な何かであっても、私は構わない。
「生きづらい」人が一人でも減ることが私の心からの願いである。
2013年7月9日火曜日
身体から目をそらすな
今日も、仕事の合間にヴィパッサナー瞑想をした。
私の仕事はデスクワークだが、それでも身体のあちこちに負荷がかかり、それに抵抗して力んでいる。
身体を支える上腕 机に接するヒジ
上体を支える腰や背中 椅子に接した尻 曲がった足指
キーボー上で下に向けたままの手首 頭を支える首
噛みしめられた顎 眼筋
探せばたくさんあると思う。
これらの箇所を「使っているという実感」なく使い続けると、私は体調を崩す。
業務では、どうしても「早く済ませたい」「きちんと仕上げたい」などの気持ちが先行し意識が外へ向きがちである。
自分の身体感覚をかえりみないまま長時間過ごすと、気づいた時には心身が苦しくなっている。
ずっとマインドフルなまま仕事するのが理想だが、それはなかなか難しい。
なので、休憩を小まめに挟んで頻繁に修正するよう心がけている。
身体のどの部分に、どのような角度でどんな感触の力がかかっていたか、どんな疲労が刻まれたか、
そう再確認するように意識を向けていると、しだいに心と身体がスッキリする。
日常の中でおこなう小さな瞑想は、私の生活に欠かせない。
2013年6月23日日曜日
2013年 ダイアリー
ダイアリーや手帳について考え始めると、つい機能の追求を離れて遊びに走ってしまいがちだ。
変に凝りすぎて疲れたりするので、注意しなければ。
↓ 市販のものが合わず、やむを得ず「半」自作
↓ ベースにしたノートにもともとカバーがついているので、それを生かしている
このごろは以前よりもブログなどでの手帳活用法の公開が減ったような気がする。
以前がブームだったのだろうか。
本来できるだけ簡単なものがよいのだろう。