2013年11月26日火曜日

「歪み」の特徴


ヴィパッサナー瞑想をすると、「神経の歪み」を直していると感じる。
そもそも歪みがない人は、やっても変化はないだろう。
歪みが5つある人は、5つ直せば終わりだ。


「歪み」の増殖


心の歪みが厄介なのは、それが増殖する点だ。
始めに歪みが1つできると、そのあと身体を不用意に力ませるたびに新たな歪みがつくられる。

①歪み + ②身体の力み → ③新たな歪み

という具合だ。
②の種類により、続く③も様々である。
また、同じ②という行動も、その前段階にある①によって様々な種類の③を生むきっかけになる。


「歪み」の解消


歪みは、基本的には直近にできたものから解消されていく。
③が解消されても、①の重苦しさが残っているため、進んだことに気づけないことも多い。
進捗を顧みずに黙々と続ける「待ち」の心構えも不可欠だろうと思う。



何度も巡るしかない


歪みというのは、人それぞれのそれまでの経験や習慣に応じ、複雑・多層的に広がっている。
精神や肉体の観察を何巡もおこない、偶然の力も借りつながら少しずつ発見していくしかない。
とにかく続けることが重要なのだ。

その道は長く感じられるが、人間の一日、一ヶ月、一年の活動はだいたい似たことの繰り返しであり、これまで全ての過去も、頭のなかで回想できる早さや効率を考えれば大した量ではない。
つまり気が遠くなるほどの作業ではないということだ。
不慣れなために長大に思えるが、毎日頑張ればそのうち終わらすことができる。





2013年11月22日金曜日

瞑想の役割を考える 2


瞑想で「悟りを得る」必要はなく、「健康」を手に入れれば十分、そう言ったのが前回だ。
ならば瞑想は病人だけがすればいいものかと言うと、そうではない。
みんな、誰もがすべきものだと思う。
人が不健康になりにくい「世の中」を作るためにである。


人が不健康になる世の中である。

―自分より幸運な者がねたましい―
―自分だけ損をするのは絶対いやだ―

そんな貧しい風潮が世間を覆い、ともすれば建設的な議論よりもストレスのはけ口探しが優先される。
日常のいたるところに不健康の種が潜み、もはや世間は何が正しくないかを見分ける力さえ失ったように見える。
自らの心を健康にしてくれるものを支持し、そうでないものを手放すセンス、それは今の日本に最も欠けているものの一つではないだろうか。

「心」の健康にとって必要なものを知り、それに基づいた行動を皆が自然にとれるようになることに、瞑想は役立つだろう。
瞑想を通して社会は「心」についての理解を深めることができる。


いつの時代も世の中は不平等で、未来は不明瞭だ。
誰にとってもそうだ。

だからこそ、望まれるのは常に前向きでいられることだ。
みんながそんな風にいられる世の中を目指さなければならない。
超越などしていなくても、いやむしろ限界だらけでも、それでも伸び伸びと努力できる環境を作りだすこと。
それこそが最もハイレベルだと言える。

そんな境地に到ることができたら、人間は少しばかり胸を張ってもよいと思う。
あくまで自然に自分らしさ(=人間らしさ)を高めたことになるのだから。



2013年11月12日火曜日

瞑想の役割を考える 1


悟らなくていい


ヴィパッサナー瞑想を本気で訓練すれば、いわゆる「悟り」に達することが可能だろう。
だが私は人間に「悟り」が必要だとは思わない。

人間は神様でも何でもない。
ほかの種を差し置いて、人間だけ特別な領域に到達すべき理由はない。
あたりまえの話であろう。

生き物であれば争いごとを完全に無くすのは困難だろうし、ここまで高度な知性を持てば、複雑な社会を形成しストレスに遭遇することも、言わば宿命的だろう。

性(さが)を無視しようとしても、その行為の多くは非効率である。
むしろそれを前提に据え、うまく周辺を整えるのが正しい。

不安定も、抑圧も、そこから生まれる物語も、芸術もすべて受け入れて、人間は「人間らしさ」を全うすればいいだけだ。
特別なことはしなくていい。


「健康」であれば十分


悟らなくていい。「健康」までで十分だ。そこまで瞑想は役立てられればいい。

そこからは「健全な生命力」を最大限に活かすだけである。



2013年11月8日金曜日

瞑想と筋トレ


ヴィパッサナー瞑想をすると心の病気が治ったり、性格が良くなったりするのはなぜか。
それは単純である。
病気になった時や性格が悪くなった時と逆の現象を身体に起こすからだ。

スポーツや音楽に触れたらうつ病が治った、人との出会いで性格が明るくなった、などのケースと、起こることの本質は同じ。
そういったときに生じるメカニズムを単独で意図的に起こすのが、ヴィパッサナー瞑想である。

スポーツや音楽があらゆる箇所を修復するとは限らないので、網羅的に心身を探る。
柔道家などが脱臼した骨を自力で『はめる』ように、神経の働きが歪んだ箇所を自力で戻していくのだ。


しかしながらヴィパッサナー瞑想は何とも似ていないため、言葉で説明されてもなかなか腑に落ちないと思う。
人間と言うのはすでに知っている情報から類推するしかないので、

「雑念を一時的に気合で締め出しているだけではないか」
「いまここ、が重要なことくらい分かる」
「宗教懸かっていて、真剣にやる気がしない」
「観察すると苦が減るというのは飛躍に感じられる」

などの疑問が生じるのは自然だと思う。
けれども残念ながら、瞑想の仕組みについて生理的な説明を尽くすことはやはり今のところ難しいのではないだろうか。


私の場合は、これを筋トレと同じようなものに位置づけている。
筋トレしたことのない子供に、「重いものを持って腕を曲げ伸ばしすると腕が太くなって力も強くなるらしいけど、なんで?」と訊かれたら、うまく答えられるだろうか。
私達は、筋肉じたいが太くなる様を知らないし、だいたい筋肉そのものを観察したこともない。
脂肪が燃えるとは?筋繊維の何が太くなるのか?
さらに、腕力が強くなるということの説明になると、なお難しい。
ほとんどの人が「とにかくこうやると、こうなるのさ。」としか言えないはずだ。
しかしそうした医学的な理解のあいまいさと対照的に、「負荷を感じなければ効かない」など、筋肉を鍛える「正しいやり方」についてはよく知って納得している。

この理由は、「自分でやったことがある」し、「みんなの常識だと思っている」からだ。
筋トレは「体験」され、「信用」を獲得している。
私にとってヴィパッサナー瞑想は筋トレと同様だ、「分からないところはあるが、信じている」。
私個人の内では「体験」が強力に信憑性を示し、「信用」を確立した。

この瞑想が、必要とする人のためにもっと広く深く、世の中に根づくことを願っている。
どうすればその日が早く来るか、ひとり妄想(瞑想ならぬ)してしまうのである。




2013年11月6日水曜日

ミドリ『CL メッシュペンケース 』 


マニアとは言えないし所有しているモノも多くないが、文房具は好きである。
ネタを思いつくままに。
今日もささやかな文具ネタ。
 
 
 
 
ミドリ「CL メッシュペンケース 黒」 
税込¥378-

AEONの文房具売り場にて入手。
よってスペシャル感はまったく無いが、使用感がよく、気に入っている。
 
せいぜい5~6本までの小ささがいい。
またメッシュ素材なため、とにかく軽い。
薄くて軽い。
もちろん柔らかい。
汚れも付きにくい。
 
 
筆記具というのは、人間にとってある意味もっとも身近な道具だろう。
書き心地のよいものが手元にないと落ち着かないものだ。
 
 しかし、興味のない人に言わせれば「書ければいい」ていどのもの。
 
そうかもしれない。
私も、黒ペン一本と無造作にたたんだワラ半紙……のような極めて単純な流儀が、実は理想だったりする。
 
 
 
 
 
 

2013年11月5日火曜日

幼少期の人格形成


私は小さい頃から人の目が気になる性分であった。

成長とともに属する社会が複雑化するにつれ、その傾向は強まった気がする。
社会人になり世の中を少し見渡せるようになれば多少緩和されてくるかと思っていたが、私の場合そうはならなかった。

ところが、ヴィパッサナー瞑想をするようになった今、それが落ち着いている。
これまでで最も穏やかと言っていい。
このことから私は、ヴィパッサナー瞑想はかなり初期に固まった人格の部分にも作用すると感じている。

人格形成とは、どういうメカニズムで起こるのか。
幼少期における”三つ子の魂”の形成と、それ以降の(経験や病気などによる)性格の変質などとの、共通点と相違点は。

興味が尽きない。