2015年3月27日金曜日

Babies cry


職場の隣が小児科のクリニックになっていて、仕事中しばしば子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。
「漏れ聞こえてくる」よりも「思いきり響いてくる」という表現が正しいか。
注射や医者を恐れて泣きわめいているのだ。
もはや半狂乱の子もおり、仕方がないこととは言え可哀想に思う。

かつてそれについて、「そんな恐ろしい思いをして、精神に影響はないのだろうか?」と思ったことがある。(心の問題を長年抱える私は、「ストレス」について考察する癖がある。)

その子供達は、事情を知るこちらでも耳を塞ぎたくなるほどの声で、自分を守ってくれない親をも非難しながら、まさに絶体絶命の危機を訴えている。
人間が「泣き叫ぶ」ことなど滅多にあるものではない。
もちろん子供の世界ではありふれたことかもしれないが、ともかく私自身が「泣き叫ぶほどのストレス」に今直面したら、自分がどうなってしまうのか想像がつかない。

しかしそのような子供達が(注射などを恐れたことによって)人格形成に異常をきたしたという話は無論聞かない。

思うに、「泣き叫んでいるからこそよいのだろう。
大きな恐怖ではあるが、それを拒絶し、相手を罵倒し、人目はばからず全身で抵抗する、そうやって「我慢していない」から大丈夫なのだ。

「拒絶する意志」を手放すことが危ない。
ストレスは、それに「堪え始める」ところから強力に発動する
どんなストレスかといった内容よりも、そこがポイントだと思う。

その子供達にも、いつしか注射をされても泣かない日がくる。
みんな泣いてないから僕も泣かない、など当人達が「納得」を得ながら自主的に乗り越えていく。

世の中で、そういう「納得」が常に得られるのならありがたい。
しかし現実は腑に落ちぬまま堪えねばならないことが少なくなく、注射のような単発ではない、反復的・長期の試練も多い。


「忍耐」には美徳の側面があるが、思い切って放棄することも、時にとても重要だ
大人だって、キャパシティの限界がきたら声を上げて叫ぶべきだ。
いざという時に「我慢」を放棄する勇気さえ持てば、「苦境」というものもさほど怖くないのかも知れない。


2015年3月20日金曜日


私達の奥底にある『健やかに生きよう』とする火は決して消えない。
その火こそ、私達の存在そのものである。

ボロボロになっても、そこを抜け出すきっかけに気づくセンスが失われることはない。
私達の根元は「機会の到来」を、いつまでも、伏せながらでも待つ。
最小の準備が整えば、必ずやそれを土台に立ち上がり、力強く歩き出す。


「私を守り生かす」という任務を、私の根本は投げ出さなかった。
一見すべてを放棄したかに見えた、苦痛と恐怖に屈した日。
その日のそれらも、苦痛は私へのシグナル、恐怖は私をそれ以上ムチャな道へ進ませぬための障壁として用意された、自らの適応力の産物であった。
粛々と任務は遂行されていた。


人は壊れない。
抜け道が見えにくい状況があるだけである。
混乱が一定まで収まれば、心身は自ずから「正しい一手」を打ち始める。
感性が向上し、快適な方へ向かえる日が必ずくる。

燃え続ける火を信頼し、時にはすべて忘れて休むといい。
自分の本来の強さを信じるのである。


2015年3月16日月曜日

通勤スタイル制服化


何というわけではないのだが、通勤用の靴。
REGALの、紐タイプの810RAL(上)と、モンクストラップの813RAL(下)。


仕事ではこの2足を交替で使用している。同シリーズのものなので、木型というかフォルムが一緒だ。

REGAL に特別の思い入れはないが、どこでも手に入るので便利だ。くり返し同じものを買い直し、ユニフォームのように迷わない運用ができる。
本来は1足でも構わないのだが、2足以上を履き回すとそれぞれ長持ちするらしいのでそうしている。デザインが紐とストラップと異なるため、区別や交代がしやすい。
Minimalist(ミニマリスト:最小主義者)という極限まで物を持たない生き方をWebなどで見かける。
激しく惹かれるものがあるが、私にはちょっと無理そうである。しかしそこまでは無理でも、モノを減らすことはうつ対策に有効であるので心がけたいと思っている。(凝り過ぎて執着にならないよう要注意。)


ついでに言うと私は服装も3種類で、月曜から水曜まで服装A→B→Cときたら、また木曜から土曜までA→B→Cだ。
服装にうるさくない環境なのをいいことに、始めはネクタイをしていたのがシャツだけになり、ついにはクルーネックのニットだけ、というカジュアルな上半身になってしまった。
締め付けがどうにもガマンならず、もうネクタイなどできない体になってしまったような気がする。社会人としていかがなものかとも思うが、「迷わない&締めつけない」が私の体調管理には不可欠なので、差し当たりよしとしている。



2015年3月13日金曜日

近況


ここ何日か、うつ症状が本当に発症初期のころに似ている。

・後頭部や首、こめかみの痛み方
・腹部の、分断したような違和感
・思考の散らばり方


昔はパニクったが、今はベテランなので当時とは違う対処をしている。

いろいろな感触を経験してきたが、初期の頃のそれらに近頃のがとても近い。
症状は一旦最も深刻なところまで進み、そこから引き返すようにして逆の症状をたどりながら改善するように感じる。
このまま始めのところまで戻っていき、入ってきた所から抜け出せたら嬉しい。
予想したとおりには進みにくいものなので、過剰な期待はしないつもりだ。



2015年3月10日火曜日

ストレッチ 


ストレッチを軽く長時間すると心の健康にもいい。

物理的によく伸ばすことは重視しない。
それを重視すると、伸ばしている部位を物体として外から眺めてしまうような感じになる。
そうすると、部位と気持ちとの間に感覚的に距離ができてしまう。

そうではなく、反対に自分の気持ちと肉体の繋がりを強めるように、感触を「感じ取る」ようにする。
落ち着いて、ゆっくり気持ちよく伸ばす。
その快さと満足感をしっかり味わう。
どれくらい伸ばすかは問題ではない。


身体の「各部分」。
それを感じようとする意志。
それらをしっかり持つようにすると、心は自然により健康へと向かっていく。


2015年3月6日金曜日

アンナ・カレーニナ


すべての幸福な家庭は互いに似ている。

不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。

(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』より)


幸福な家庭とはどういうものだろうか。
思うに家庭には「落ち着く場所」であることが最も求められ、それさえ満たされていれば差しあたりOKではないだろうか。
ささやかでも当たり前なことが満たされ、「落ち着ける場」として機能している家庭に対し、それ以上の何を求めようか。

不幸な家庭が多様に見える理由は、私達がそれらを隅々まで見るからである。
どうすればああならずに済むか、自分のうちと比べてどうか、防衛本能に命じられて注意深く目を走らせたため、自ずと様々な点が目に入るのだ。

すべての幸福な家庭は互いに似ている。
それ以上の細かいところを見る必要がないから。
不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。
それぞれの仕方をちゃんと見たから。

幸福はムードに、不幸は事実の細部に宿る。
本来それらは同じ次元で扱うべきではない。
敢えてそれらを対比させた冒頭の言葉は、いたずらに人の不安や悲観を誘う、意地の悪いものだ。


家庭のことに限らず、ベーシックな幸福にはいつも同じことが言えるのではないだろうか。
何かと比べたりせず細かいところについて考えもしない、「何気なく」こちらの求めに応じているものこそが、いつも幸せをつくっている気がする。

「幸福とは何か」と敢えて考え始めた時、私はきっと疲れている。
そんな時はクヨクヨ考えるのをやめて、自分の感覚に委ねたい。

おそらく全ての幸福は互いに似ている。


2015年3月2日月曜日

スマホを握る手


携帯(スマホ)を持つとき、手首を捻っている。

調べ物などでずっと握っていると、
手首の角度をキープする力で、肘から先がいろいろ疲れる。