2013年9月13日金曜日

苦しみに誇りを持つ


“自分の頭上に理由なく振りかかった不幸”と戦う勇気、それはこの世で最も尊いものの一つだ。

そしてその戦いが「人知れず」なされるとき、その尊さはMAXである。



こんな言葉は「泣き言」と評されねばならないだろうか。
しかし内容じたいに間違いはないと思う。

「暗黙だが本当のこと」に、しっかり耳を傾けていなければならない。
自分自身のために。




2013年9月9日月曜日

空(くう)


高校の授業


昔、学校で以下のように習った。

「上座部仏教は個人の解脱をめざすもので、それに対し大乗仏教はみんなで救われましょう、というものです。個人主義的で厳しい修行をともなう前者に対し、後者は人間をありのままに受け入れ、みんなで仏の道に従えばいいという考えです。日本に伝わって信仰されているのは、後者の方です。」

そう聞いて私は「上座部仏教というのは、自己中心的でイヤな感じだ。日本は大乗仏教を取り入れて正解だったな」と思った記憶がある。
その授業をした教師も同じように思っているような口ぶりだった。


空(くう)の概念


大乗仏教といえば、「空(くう)」だろうか。

すべては縁により移り変わり、不変なものなどない。
とらわれることの無意味を知り、すべて受け入れ、縁にゆだねる境地へと至るべし。

しかし、「空(くう)」の発見というのは単に人間の知的欲求を満たしただけではないだろうか。
その概念を用いていかなる有形な主張をも論破できようが、口論で敗けないことにさほどの意味はない。

空(くう)と瞑想


ヴィパッサナー瞑想に対しては、「観察する」という行為が自他のギャップを強めており、それは「主客未分」という真理に反している、という批判がしばしばなされる。

「存在とは完全に不定なものである」という原則に則れば、自分と観察対象とをそれぞれ定まったものとして分けて扱うヴィパッサナー瞑想はおかしいというわけである。

こうした指摘に対し、私は何となく違和感をおぼえる。
「空」に始点や程度があることをその指摘自らが認めた形になっている気がする。
また、イメージや考え事を多少固定的にすることは、「空」性に反することとまで言えるのか。
「空」の完全性を前にして、瞑想中に「空」っぽくないイメージを抱くことがどれほど良くないことなのだろう。
そもそもだが、瞑想によって到達しうる感触が実質の「空」と同質のものなのか、その証拠はない。

同様のことは、こうしたジャンル全般に言える。
例えば上座仏教のヴィパッサナーでも素粒子の生滅を体感すると言われるが、そのとき感じたものが本当に素粒子であることを知る術はない。



人間が行ける範囲


「空(くう)」や「真理」は、人間にはたぶん関係がない。
と言うか関係あるとする必要がない。
人間は五官で感じ取ることの中で生きており、ゆえにその辿りつける最上の境地は「五官や自律神経の最大の健康」だと思う。

ちなみにややこしくなるが、理論の細部はともかく技術的にそれを実現できるのが、上座仏教のヴィパッサナー瞑想だ。



上座部仏教と大乗仏教、どちらがよいのか。


世界観や教義などに重視すべき差はないと思う。
ただ、上座仏教が伝えるヴィパッサナー瞑想には、ほかの何物にも代えがたい価値がある。
これを批判する人は、おそらくヴィパッサナー瞑想をちゃんとやったことがないのではないかと思っている。



2013年9月8日日曜日

普通の油性ボールペン 


JETSTREAM以降の低粘度インクの油性ボールペンよりも、昔からの油性インクが好きだ。

ムラのある線が「呼吸」をしているようで良い。
ベタッと均一なのは息苦しく、なんとも詫び寂びがない。
(PILOTのA-inkも孤高で格好いいが、私にはスムーズすぎる)


ついでに言うと、水性顔料などのやたら滑るインクも苦手だ。
ペン先の走りが、私の「書く意志」を越えていく。
先に行かないでほしい。




(追記2013.9.10:PILOTのA-ink芯が2011~12年くらいにアクロインキへ変更されていたことを投稿時には知らなかった。もう孤高ではないようだ。)


2013年9月6日金曜日

悟り 1


「悟り」と言われるものの一端を垣間見たことがある。

その状態は一ヶ月ほどで消えてしまったのが。
うつ病になる前の話だ。

世界がとても静かだった。


不安や後悔というものがなく、必要なことに必要な順序で自動的に集中力が向けられる。
雑念が入ってこず、最小限の力で対象に焦点を合わせることができた。

ものごとの良い部分が心に入ってきた。
普通の人の優しさ、一生懸命さ、美しさ、格好良さ、その人らしさ。
普通の景色の平等さ、やさしさ、強さ。
普通の食べ物の美味しさ、力強さ。

悪いものは心が捉えず、したがって自然に流すことができた。

身体が軽く、全身が少し痺れたような感覚で満たされている。
どこにも力は入っていなかったが、どちらの方向にも素早く、最短距離を、やはり最小の力でブレることなく動けた。

視線は外の世界全体にゆったりと向けられていたが、目の端でなにかの小さい動きまでとらえることができた。
数秒先の情景が、あらかじめ見えるようなこともあった(経験から予測できる情景を、頭が描いたものと思われる。それが時々、目の前の実際の情景に先行する)。

よく分からないが、鼻の少し上あたりを軽くつままれたような感覚があるのが特徴的だった。

良くない点として、集中力が使われすぎているためかすぐに眠くなった。



 無我の境地


アスリートが経験するという「ゾーン」や、武道家が目指す境地という「脱力」などの言葉がよぎる。
自分が、感覚だけの存在、または単なるエネルギー体になってしまったような不思議な感覚。

人間の強さや弱さ、自由というもの、人間の能力と言われているもの、人格と言われているもの、信仰、争い、善と悪、そういうものがどうなっているのかを感じ取れた。

恍惚感というより、ただ広がる静けさが印象的で、とりたてて語るべきことや示したいことが無く、自らが寡黙になったと感じられた。




広がった世界


しかし、その状態は、ある日些細なことをきっかけに去った。

私はあれを完璧だったと言うつもりはない。
「真理」等に話を飛躍させるつもりもない。
ただあの時の眺めは私の心にささやかな片鱗を残し、ひとつの依りどころとなっている。

感受というものに関する認識を深めてくれた、興味深く、貴重な体験だった。