2013年8月31日土曜日

お互い様

 

うつ病の人は、少し立ち止まって考えてほしい。

 

うつ病周辺に存在する最大の問題は、「本人がとても苦しい思いをしているということ」だ。

その重大さ・悲しさに比べたら他のことはちっぽけである。

病人が周囲に与える実害など、ごく小さいのだ。

「不適切な言動で迷惑をかけている」と言うなら、それをやってない人間のほうが圧倒的に少数だ。



個人が与える迷惑なんて、たかが知れている。

自分がこの世にいない方がいい、なんて、そんなことはないのだ。

そう思いたくなること自体が症状にすぎないと、傍観してほしい。



この世にいない方がいいほどの悪など、そういない。

みんな迷惑をかけ合って、「お互い様」でやりすごして生きている。



自分がいない方がいい理由などどこにも存在しない。

ただゆっくりと治すことを考えればいい。





2013年8月30日金曜日

ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 2


自分の身体を留守にする


人それぞれ心の形はちがう。人によって性格が違うし、同じ人のなかでも経験などにより性格が変わることもある。その、「心の形作られ方」について、思うことがある。
すべて私の心身を通した経験則、感覚の世界の話になってしまうが。



1 心に「形が付く」とき

「他人の立場になって考える」―日常よくあることだ。
知人Aさんの立場になって「私」を好意的にながめたり、あるいは同僚Bさんの目線でCさんを白い目で見たり、そういったことだ。珍しい行為ではないと思う。(個人的には「考えごと」はこのような行為が多くを占めるもののような気がしている。)

言ってみれば、ちょっと自分の肉体を留守にして他人の身体に乗り込むような、他者の内面にシンクロするような行為。この行為をすると、自分の五感や身体感覚が少し「ないがしろ」になる。身体感覚の意識がやや希薄になるのだ。


この「主体の留守」による身体感覚の無頓着が強度に生じると、心の構造変化が起こる。
そして変化したまま固定される。

心はそのようにできているようだ。



2 心の変形を解除する

上記の変化を解除するにはどうするか。
歪んだ時の状況を思い出して、その時にないがしろされたであろう身体感覚を想像する。

「あったであろう身体感覚を思い出す」というのは普段しない難しい作業であるが、それをすることでコンディションを一歩ずつ戻せる。



3 瞑想とは
ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスというものは、端的に言って上記2の作業なのだと思う。
身体感覚を過剰に偏らせたことにより失った、内面の統制機能を回復させる作業。
心は身体感覚でできているのだ。
その作業が上手くさせるために、仏教の諸々の教えがある。
「今ここ」、「穢れ」、「真理」、「空(くう)」など様々な理論は、集中力を高めたり習慣化を支える上で有効に機能する「イメージすべきコツ」であり、実際に身体内で起こる変化などの事実とは直接に関係はないと思っている。








2013年8月19日月曜日

ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 1

 

身体に影響をうける心


うつ病が発症してから何年か経った頃。
私はとらえどころの無いメンタルの崩れに翻弄され、自我を保つのに精一杯な日々を送っていた。
ネガティブな思考をスルーするコツは覚えつつあった。しかし何かをきっかけに、いつの間にか心のバランスを崩し、なんとか持ちなおし、また崩し、の繰り返し。焦りは禁物と自分に言い聞かせてはいたが、一体いつになったら抜け出せるのか、毎日不安で仕方がなかった。


そんなある日、ふと次のようなことに気がついた。
「同じような体勢をしたあとのメンタルの崩れ方が、毎回似通っている」
身体の扱い方とメンタルの崩れとの間に、なにか関連性がある気がしたのだ。「体勢」や「身体に触れるものの硬さのちがい」などと体調の関連に思いあたるふしがあった。重要なヒントに突き当たった予感がした。

それから、メンタルの崩れに繋がる身体の使い方を発見したらメモをし、以降そのやり方をしないようにできる限り心がけた。体調はあいかわらず不安定ながら、少しずつ身体面への注目を始めたわけである。
それから、果たして私の体調は確かなペースで回復していったのだった。劇的とは言えないまでも、その効果は少なくとも心理学を学んだり医者に通うよりも遥かに高い確実性・再現性を持っていた。
コンディションに翻弄され一喜一憂しながらヨタヨタ歩いていた私が、初めて自主的に管理・検証できる要素を得て一歩ずつ歩み始めたのだ。
そしてその手応えは、私を精神的にも少しずつ前向きにさせていった。


身体で心を統制する


私は身体のあちこちの痛みにも悩んでいて、それらのことは「心が治れば自然に収まるだろう」くらいに考えていた。
しかし、身体は病気に振り回されるものではなく、症状を管理するために起点として活用すべきものだったのである。
コペルニクス的転回とも言うべき、まさに発想の転換であった。


さて、そんなわけで「メンタルに影響する身体の使い方」を探し始めわけだが、その結果わかったのは、驚くべきことに「力むこと全てがNG」という事実であった。
例として、

①筋力系
 ・長時間イスに座り、疲れてきても腰や背中の筋肉を使い続ける
 ・長時間歩いて、疲れてきても足を休ませない
 ・無理な筋トレ
②圧迫系
 ・机にヒジや二の腕を長時間つく
 ・イスの座面にももの裏が長時間あたる
 ・きつい靴や服、ネクタイなどを長時間身に付ける
③その他
 ・体のどこかの関節を曲げてスジが伸び続ける
 ・満腹
 ・ケガをしてその痛みに耐える
 ・長時間息を止める
 ・飲酒し興奮する

などなど。
言ってしまえば「脱力以外すべて」であり、もちろん上記以外にも無限に近くあるだろう。

生活パターンは人それぞれなので、決まったものを覚えこむ必要はない。とにかくあらゆる身体的活動を、力み(疲労)を感じた時点で切り上げる、もしくはなるべく力まない体勢・やり方に変える
腕も、足も、胴体も、骨も、筋も、もっと内部も。

それができれば、体調は悪化しにくくなる。
活の中では限界はあろうが、とにかくできる限り身体にかかる無理を少なくするようにすることだ。
そして、そのように身体面に気を配り続けること自体が良いのである。これが大切なことだ。
所謂「マインドフルネス」寄りの過ごし方となる。


「心の病」


うつ病などは「心の病」と称されること多いが、心だけの病気というものはない。
この呼び方が、身体面へのアプローチを盲点にしている。病気になる前は当たり前だった身体操作が、うつ病下ではコンディションを狂乱させる要因となるのである。恐ろしいことだと思う。
心の病気を治すには、敢えて身体から入るべきというのが真実なのだ。

心の在りようは、外から眺めていても必ず限界につき当たる。またどんなに「いい言葉」も、その効果は一過性のものだ。それらの限界を突破するのは、身体感覚へのアプローチだけだと思っている。


ヴィパッサナー瞑想との出会い


上記のような時期を経てから、今から半年ほど前にヴィパッサナー瞑想に出会った。身体面に注目する体系を見て、私は瞬時にその有効性を確信した。
もっと早くに出会いたかったが、過去の私には理解できなかっただろう。

 

ともかく、心を操縦するためのハンドルは身体にある


そう確信している。




うつ病

発症


8年ほど前に、うつ病が始まった。
ヴィパッサナー瞑想に出会うまでの7年半は、希望の光のおぼつかぬ日々であった。


「理解力・記憶力・判断力の著しい低下」
「頭(後頭部)・首・腰・背中・腕などの突っ張るような痛み」
に苦しんだ。

思考が固まったかのように働きを止め、いくら頑張っても「理解する」「記憶する」「判断する」などのやり方を思い出せない。
また頭と身体のあちこちに突っ張ったような痛みが居座り、何とも言えない身体の重苦しさに支配されてすべてが億劫になる。
さらによくしたもので、踏ん張ろう、何とかしようと意識すると、その力みによってさらに体調が悪化する。

それまでの経験の中から対処法をまったく見いだせない状況に、心底恐怖した。
朝には治っているのでは…と淡い期待をよせて布団に入るも、その願いは翌朝見事に打ち砕かれる。

―俺は頭がおかしくなって死ぬのでは?…
―まさか、こんな運命が待ち構えていたとは…

楽な人生を歩んできたつもりもなかったが、目の前の現実から逃げ出せるならなんとありがたいことかという思いを重ねる日々であった。


仕事は続けた


仕事は続けた。当然のごとく業績は芳しくなく、みじめさに焼かれるようであったが、「今は、治すことに専念する。健康な人と張り合わない。私は私の道を歩む。」と自分に言い聞かせ、騒がぬようにして過ごした。

いまにして思えば「早く休めよ」という感じである。
しかし、問題の実体が把握できていないこともあり、なかなか手が打てなかった。うつ病にかかっていると判断することにさえ数年かかった。当時はうつ病で「身体が痛む」とは一般的に言われておらず、私は他の何かだと思っていた。
仕事を休むことで期待できる回復、復帰後の皺よせ、そもそも一度休んで再び自分は立ち上がれるのか…諸々の要素を整理して決断することができなかった。
思い切って休暇をとるべきか否か、それ自体が私の手に余る難題だった。


医者に通ったけれど


医者に通っても「ややマシか」と思える日が極めて稀にある程度で、全体的に回復している感じが全くしなかった。そもそも「気のせい」と片付けられ混乱を深めるなど逆効果だったりもした。(そういうふうにして正しい把握が遅れる)
辛抱して通った所もあったものの、けっきょく負担がまさっていると判断し行くのをやめた。


現在


いろいろを経た今、完全に回復したとは言えないながらも、かなり落ち着いている。振り返ると、とくに初期などは回復と逆方向に突っ走ったりなどしてまったくヒドかった。相当な遠回りをしたものだ。

現実だとは信じられないくらいに孤独でつらい日々もあったが、結局どんな時も「いかに自分の道を歩むか」に尽きる、という大きな、しかし当たり前のことを学べたことは良かったと思う。



2013年8月9日金曜日

道徳教育


「道徳」を正式な教科にすることが検討されているが、

そうするくらいなら「瞑想」を教科にした方がいい。


道徳を「知らない」ことではなく「守れない」ことが問題の本質だろう。
知っている道徳をみんな実践できたら世の中は十分平和だ。

人の道を外れてまで発散したい感情の管理に瞑想が役立つ。

瞑想が臨床の現場で生かされている現状などの座学も学ばせる。
宗教的な問題もあるだろうから、仏教色は抑える。
子供たちは真剣にやらないかもしれないが、存在を知っているだけでも必ず何かの役に立つだろう。

瞑想について皆が一定の知識をもつことは、世の中の助けになるはずである。