職場の隣が小児科のクリニックになっていて、しばしば子供の泣き声が漏れ聞こえてくる。
「漏れ聞こえてくる」と言うより「思いきり響いてくる」。
注射や医者を恐れて泣きわめいているのだ。
もはや半狂乱の子もおり、仕方がないこととは言え可哀想に思う。
かつてそれについて、「そんな恐ろしい思いをして、精神に影響はないのだろうか?」と思ったことがある。(心の問題を長年抱える私は、「ストレス」について考察する癖がある。)
その子供達は、事情を知るこちらでも耳を塞ぎたくなるような声で、自分を守ってくれない親をも非難しながら、まさに絶体絶命の危機を訴えている。
人間が「泣き叫ぶ」ことなど滅多にあるものではない。
子供の世界ではありふれたことかもしれないが、ともかく私自身が「泣き叫ぶほどのストレス」に今直面したら、自分がどうなってしまうのか想像もつかない。
しかしそんな子供達が、注射などを恐れたことによって人格形成に異常をきたしたという話は聞いたことがない。
思うに、「泣き叫んでいるからこそよい」面があるのだろう。
大きな恐怖ではあるが、それを拒絶し、他者を罵倒し、人目はばからず全身で抵抗する、そうやって「我慢していない」から大丈夫なのだ。
「拒絶する意志」を手放すことの方が危ない。
ストレスは、それに「堪え始める」ところから発動する。
どんなストレスかといった内容よりも、そこがポイントだと思う。
その子供達にも、いつしか注射をされても泣かない日がくる。
みんな泣いてないから僕も泣かない、など当人が「納得」を得ながら自主的に乗り越えていく。
世の中で、そういう「納得」が常に得られるのならありがたい。
しかし現実は腑に落ちぬまま堪えねばならないことが少なくなく、注射のような単発ではない、反復的・長期の試練も多い。
「忍耐」には美徳の側面があるが、思い切って放棄することも、時にとても重要だ。
大人だって、キャパシティの限界がきたら声を上げて叫ぶべきだ。
いざという時に「我慢」を放棄する勇気さえ持てば、「苦境」というものもさほど怖くないのかも知れない。
