以前の記事で、自殺すべきでない理由は『人生が勿体ないから』と述べた。それはある時期から一貫して変わらない。
しかし、ふと思い出したことがある。
うつ病が最悪の頃、自分はどんなふうに絶望を乗り越えたのか?
―症状に追われパニックのようだった初期、
―簡単に治りはしないと悟り、恐怖を深めた中期、
―瞑想に出会ってからの後期。
うつ病の経過は上記のように分けられるだろうか。長くハードな日々だった。
「もう生きられない」と何度思ったか分からないが、私を直接踏みとどまらせたのは、冒頭の『人生が勿体ないという考え』ではなかったかも知れない。
私はうつ病になってから、健康な人生というもの全てを見下すようになっていた。
心を病むことの恐怖と損失を知ってから、世間の問題のほとんどが取るに足らないものに思え、あまりに表面的なことに心身を躍らせているようにしか見えなくなった。
世界の大部分を敵視した、閉塞的な精神状態に陥っていたのだ。
そのため、自分が死んで誰かが悲しむことなど気にしなかった。
そもそも私の身に起こっていたことを健康な奴らの誰が理解していたか、くらいにしか思わなかった。
そんな極度に自己中心的で死を日々意識していた私が、それでも自殺を実行しなかった理由は、「私と似た状況にいる人達」の存在があったからだと思う。
具体的にそういう誰かを知るわけではないが、誰かがいつ終わるとも知れない苦しみの中、私のように必死に模索しながら生きている様を想像することは、ある種の支えになった。
私自身も「こんなに頑張っても意味ないのではないか?」という不安とせめぎ合って生きてきた。
私が死んだら、「やはり無意味だった」ということを私自身が証明することになるのではないか…。
同志への裏切りとも言える「安易な投降」はしたくない、という思いが私を生かし続けたのだと思う。
逆恨みに心を明け渡した私が、最後にもてる誇りだったのだろう。
* * * * *
自殺の可否に対する答えは、「一般論として」、「他者を救うため」、「自分を救うため」など、目的によって落とし所を変えざるを得ないものだと思う。
そしてそれでいいのだろう。
答えを一つに定めるよりも大切なことはある。
いま、人を救う。いま、自分を救う。
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