2013年7月19日金曜日

本能


理性


「他人に迷惑はかけられない」
「あの人達を悲しませたくない」
私達は「理性」というものによって後ろめたさを感じたりして、道を外れぬように踏みとどまっている。

「理性」は原始的で欲求まかせの「本能」と対極のものとして扱われることが多い。
けれども「理性」を重んじることで得られるものは、「生き延びる安心」に他ならないと思う。理性的であれば社会から問題視され排除されることが少なくなるからだ。
排除されることは孤立を意味し、これは社会的生き物である人間にとって命の危機にも繋がりかねない状況だ。
だから人間は、死にたくないから、生き延びたいから、排除されぬように「理性」を示し合う。
そのように「(生存)本能」に命じられているのだ。
そう私は思っている。

つまり人間の「理性」は、本能の対極ではなく同源、いや同一のものなのだ。


全ては本能


理性さえが本能である。
そう考えて世の中を見渡すと、人間は本能以外の実に何物も持ち合わせていないように思えてくる。人間の活動のうち、「危険の回避」または「安定の追求」と言い換えられないものがあるだろうか。
愛も絆も、勝ちに拘ることも、逆にフェアに拘ることも、
疲れことも、逆にそこで頑張ることも、
…全てがそうだ。

あらゆる生き物は、「生命」を守るために必要なことだけしている。
それぞれが環境などの違いによりやらねばならないことが異なるだけであって、人間も例外でない。
人間も専ら「生存」しているだけであって、その活動の中に高尚なものなどないのだ。


快楽は悪?


人間は、ただただ本能の塊である。
われわれは全存在を、生存・繁栄のみに向かわせている。

そこに目を向けると、ちなみにだが宗教などにおける「快楽の否定」が気になってくる。
「楽しい」と感じる機能は、人間にとって明日の繁栄へ向かうための、極めて重要な原動力だ。
真に必要な物を手に入れた時に、われわれは快感を得るように作られているのだ。
「快楽は穢れ(けがれ)である」と言われると、特に日本人などはストイックな方向へのカン違いをしやすいと思う。
快楽のすべてを「無用な執着」と見なしてはいけないと思うのだ。



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