2014年4月15日火曜日

信仰などについて


一般人として瞑想に取り組むなら、気持ちのスイッチはとくに重要であろう。

気持ちのスイッチを入れるのが上手ければ、日常の出来事などを引きずらずにすむ。
空き時間を瞑想に充ることなども簡単になるはずだ。


瞑想は仏教に由来する。
寺院などは独特の建築・内装・香・音で空間が満たされ、世俗を脱ぎ捨て集中するにはとても理に適っているに違いない。

私はうつ病を治す目的で瞑想をしてきたため、体調の回復に関係ない理屈には興味が無く、仏教というものへの思い入れも少ないが、信仰心を持っている人がうらやましいと思うところはある。

神や仏などを信じられることは、きっと心強いものだろう。
瞑想する際も、自室に宗教的なアイテムを置くなどして集中しやすい環境を作れるはずだ。
誰にでも、信じて憧れる人物や元気になりたい時に聴く曲など、自分を勇気づけるものがある。
つねに合理的であることが最善なわけではなく、宗教であっても、あの雰囲気が好き、神秘的で格好いいぜ、という感じで、趣味のように接しても良いだろう。
それで元気が手に入るなら良いことである。


私もヴィパッサナー瞑想を知ったとき、2,500年もの昔に現代の心理学を超えたような手法が存在したこと、またそれを発明した人物がかの有名なお釈迦様であること、さらに人類はそれをあまり一般化させずにいること、などについて、なんてドラマティックで面白いんだと思った。

しかし残念ながら、宗教は自らの立ち位置を複雑にしてきた。
信仰心を良くない方へも利用し、胡散臭さをまとうものになってしまった。
その胡散臭さが、良い部分を見えにくくしているのは残念だ。


話がそれた。
瞑想のための気持ちのスイッチ、である。
無意味やゴマ化しを強く否定してきた私は、無信仰を通り越し、無感動のレベルかもしれない。
手軽に自分にスイッチを入れてくれる、つまりその気にさせてくれるものが皆無なのだ。

そんな私が瞑想にむかうモチベーションの上げ方は、逃げずにやり遂げることが色々な意味で自分の宿命である、と繰り返し確認することだけかもしれない。




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