2014年5月23日金曜日

自分を守る心構え

 
うつに罹って7年ほど経ったころ、ヴィパッサナー瞑想を知った。

すでに身体に注目する重要性は感じつつあったので効果への疑いはなかった。
とはいえ、それまで長年ネガティブなものを吸い込んだ私の心身は、本来の統制力を欠いてしまっていた。

瞑想をどうにか頑張るしかなかったわけであるが、疲れ果てているが瞑想だけは集中してやれます、とゆくわけがなく、やはり生易しくはなかった。

世間の人の活力に触れるたびに自分の不甲斐なさに落胆し、投げ出したくなる。
そこで頑張るべき理由を振り返り、「自分がすべきこと」に専念する感覚を鍛えて…と、自らを何度も軌道に乗せなおす辛抱の日々があった。

本来は「辛抱」などと考え込まずに粛々と行えれば良いのだが、疲れた日・残念なことがあった日などは、どうしても辛くなる。
そういうときに私が自分に言い聞かせてきたことを、ささやかながら紹介したい。


①人の道に外れなければ、どうであってもよい
→この世で恥ずべきことは「人の道に外れること」のみだ。それ以外、例えば何かが出来ないとか、誰かに負けるとかは人の道は外れていないので恥じる必要はない。他人に迷惑をかけてしまうと申し訳ない気持ちにとらわれるが、病気でそうなっているのだからこれも仕方がない。

②自分の健康が第一
弱っている時に限って、なにか人の役に立ちたくなる(私だけか?人の手助けをしたくなったりする。何も出来ない惨めさから逃れたいのだろう。)人の支えになりたいなら、半端な体調で臨むのは失礼だ。健康であってこそ、何事も最大のパフォーマンスを発揮できる。まずは自分の健康回復以外に着手する必要なし!

③他人を見下してくる人間はもれなく三流。そういう人間に対するコンプレックスは不要
→瞑想が進むとよりハッキリ分かってくるが、人間の行動は大部分が無意味な「発散」である。人を見下すという行為も、本来は必要のない、安易な発散衝動に身を委ねた結果なのだ。そんな自覚もない人間は、どんな地位にいても無知だと心の中で思おう。よりによって他人を発散に用いるなど最低で、それこそ人道を外れている。



以上3つが、私がもっとも愛用していた考え方だ。(もはや瞑想と関係ないです。健康に問題ない方はスルーでお願いします。)

うつ病とは、言いかえれば「惨めさ」との戦いであるから、自分が凹んでしまうことを防ぐために「守りの体制」を強化しよう。
多少甘え・自己中心的な姿勢があってもよいと思う。
真に病気で苦しい人は、自分の健康回復が最優先だ。当然のことである。


心の中で「三流」「無知」呼ばわりした人には、元気になってから内心で謝っておこう。


2 件のコメント:

  1. いつも参考にさせていただいております
    昨年初めからメンタルの調子を崩し
    瞑想(マインドフルネス)と出会い 今年に入り回復して中年男性です
    white-grey の記事はとても分かり易く『そうそう』と頷かされたり、
    励まされたりしています。
    宜しければこれからもコメントさせていただきますのでお付き合いの程、
    宜しくお願いします

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    1. コメントありがとうございます。
      回復されているとのこと、本当に何よりです!
      好き勝手を書いている当ブログですが、「励まされたりしています」のお言葉に胸が熱くなりました。
      どうぞよろしくお願いいたします。

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