2014年5月8日木曜日

悟り 3


「悟り」に近づいたと思われる時の話を過去にした。その頃に考えていたこと。

当時、人間には本能しかないという考えに到っていた(→関連の投稿)。
私が辿りついた結論によれば、人間を含めた生物はみな「自らの命を繁栄させようとする」だけの存在であった。

またそこから考えたことがあった。
人間がそれほどシンプルに「より強く生きる」ことだけを目的に作られているなら、「触れるもの全てを好きになろうとする」機能が備わっているはずだ、と。
楽しいことが多いほど、「もっと生きたい」という欲求が湧いて生命力が増強されるからだ。
我々の日常は、ほんとうは数々の喜びに満ちているのではないか、と思えてきた。

「人間が幸福であるために必要なこと」……そのために必要なものは、世間が言うように「自分を理解してくれる他者の存在」かも知れないが、それはあくまで「究極のテーマ」のようなものであり、当たり前だがわれわれの生は数限りない大小の「日常の納得」によって支えられている。
日常が喜びを無数に生み出しているか、そうでないかの違いは大きい。
大きいどころか、それが各人の人生に対する肯定感を決定的に左右し得るだろう。
毎日が「いいことがあった日」のようになれば、それは、気分も明るい。

しばしば私を混乱させてきた、決して恵まれていると言えなさそうな状況にいながら、自信に溢れ明るい人。
彼らの内面に去来しているものを想像できず、羨望のまなざしを向けるしかできなかったわけだが、私ももう少し視野さえ広がれば、彼らに近づくことができるのではないだろうか。
人間はおそらく、ちょっとした危険さえ楽しめるくらいの強靭な内面が備わっているのだ。

何となくの決めつけであった。
しかし日常を丁寧に過ごしてこなかった私にとってそうした考えはとても新鮮で、何よりそれまで半ば諦めてきた「人生をもう少し明るく」というテーマが前進しそうな、希望のようなものを感じさせた。
われわれは「生命力」の完全な支配下にあり、その強大な力を信じて身を任せることが最良であるに違いない、というようなイメージが膨らんできたのだった。

それから私は、生命力を信じて最大限に身の回りを前向きに味わってみるようになった。
例えば「食事」という行為であれば「これまで嫌いだった食べ物からも新鮮な味わいを感じとろう」とか「腹が満たされエネルギーが増す感覚を実感しよう」など、新しい見方を試していった。
生活における活動それぞれが自分にもたらす感覚に、改めて目を向けていったのだ。


* * * * *

上記のような「物事を自分の感受で捉えなおす」という半ば思いつきの行動が、結果的に私にとって、予想しなかった大きな意味を持つこととなった。
その習慣が自分の内面を大量に「観察(ヴィパッサナー)」する行為となったのだ。
つまり自分の内面をよく観察し、瞑想しながら過ごすような形になった。

ものを「視認」できることの安心感。見えるということ自体が素晴らしい。そして光彩に満ちた様々な景色は、改めて見ればどれも美しい。
コップを取るために手を伸ばすことができ嬉しい。腕をそこへ移動させて何かを掴みあげれば、ささやかだが達成感がある。
身体を動かすことは、むろん気持ちがよい。伸び縮みのほどよい刺激と疲れ、自分の身体への愛着。
呼吸も嬉しい。酸素が行き渡る安らぎは、どこまで感じられるだろうか。
八つ当たりなどをやめる自分の誇らしさ。
そんな誇らしささえ捨てれば、さらに清々しさを得られるかもしれない。
……

そんなふうに、五官や内面から喜びの感覚を探し、逆に自分に不快なことをさせないようにした。
義務感からでなく、自分の真の欲求を満たすために行動したのだ。
いつもの安易な価値判断に走らず、感じてみることに専念した。
(ちなみに怠けることやわがままを通すことは、真の快適からは程遠い。言い訳や負い目が生じて忙しくなり疲れることになるので、そういうことは避けるようになる。)

* * * * *

そして時が経ったある日、それまでとは違う驚くような心の静かさが訪れた。(詳細は冒頭のリンクのとおり)。
ヴィパッサナー瞑想というものを知り、その方法と自分がしたことに共通点があったと認識するのはその後しばらく経ってからのことだ。

瞑想については今も謎に感じるところが多く、その仕組みについてもう少ししっかり把握したいと思っている。
認知神経科学、ミラーニューロン、ロボット工学、筋膜など、新しい知見との関連にも注目していきたい。



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