仏教の十二縁起で、「無明」(=無知)により、次の「行」(=原始的反応などの潜在的な形成力)が生じると言われる。
まず無知であることからその後のうろつきが始まるというわけだ。
これは説明としてやや物足りない。
と言うのは、無知であっても
そのまま永遠に何もしなくても構わないわけである。
そうせずに踏み出す理由が最低限必要だ。
食べ過ぎの原因を考察するにあたっては、「適切な量を知らないためである」で終わりにせず、どういう時に何を食べたくなるか、なぜそうなるか、を把握するのが通常だ。
無明からのうろつきにそういう意味はないと言われれば、そこは結局暗黙に従うしかなくなってしまう。
私は無明というのは、始点というよりも縁起の全体に介入して各「因縁」間の盲目的・自動的な連鎖を支えているものなのかなと思う。
つまり十二縁起の直線上のものではないということだ。
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