2013年12月7日土曜日

無明



仏教の十二縁起で、「無明」(=無知)により、次の「行」(=原始的反応などの潜在的な形成力)が生じると言われる。
まず無知であることからその後のうろつきが始まるというわけだ。

これは説明としてやや物足りない。
と言うのは、無知であってもそのまま永遠に何もしなくても構わないわけである。
そうせずに踏み出す理由が最低限必要だ。
食べ過ぎの原因を考察するにあたっては、「適切な量を知らないためである」で終わりにせず、どういう時に何を食べたくなるか、なぜそうなるか、を把握するのが通常だ。
無明からのうろつきにそういう意味はないと言われれば、そこは結局暗黙に従うしかなくなってしまう。

私は無明というのは、始点というよりも縁起の全体に介入して各「因縁」間の盲目的・自動的な連鎖を支えているものなのかなと思う。
つまり十二縁起の直線上のものではないということだ。



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