発症
8年ほど前に、うつ病が始まった。
ヴィパッサナー瞑想に出会うまでの7年半は、希望の光のおぼつかぬ日々であった。
「理解力・記憶力・判断力の著しい低下」
「頭(後頭部)・首・腰・背中・腕などの突っ張るような痛み」
に苦しんだ。
思考が固まったかのように働きを止め、いくら頑張っても「理解する」「記憶する」「判断する」などのやり方を思い出せない。
また頭と身体のあちこちに突っ張ったような痛みが居座り、何とも言えない身体の重苦しさに支配されてすべてが億劫になる。
さらによくしたもので、踏ん張ろう、何とかしようと意識すると、その力みによってさらに体調が悪化する。
それまでの経験の中から対処法をまったく見いだせない状況に、心底恐怖した。
朝には治っているのでは…と淡い期待をよせて布団に入るも、その願いは翌朝見事に打ち砕かれる。
―俺は頭がおかしくなって死ぬのでは?…
―まさか、こんな運命が待ち構えていたとは…
楽な人生を歩んできたつもりもなかったが、目の前の現実から逃げ出せるならなんとありがたいことかという思いを重ねる日々であった。
仕事は続けた
仕事は続けた。当然のごとく業績は芳しくなく、みじめさに焼かれるようであったが、「今は、治すことに専念する。健康な人と張り合わない。私は私の道を歩む。」と自分に言い聞かせ、騒がぬようにして過ごした。
いまにして思えば「早く休めよ」という感じである。
しかし、問題の実体が把握できていないこともあり、なかなか手が打てなかった。うつ病にかかっていると判断することにさえ数年かかった。当時はうつ病で「身体が痛む」とは一般的に言われておらず、私は他の何かだと思っていた。
仕事を休むことで期待できる回復、復帰後の皺よせ、そもそも一度休んで再び自分は立ち上がれるのか…諸々の要素を整理して決断することができなかった。
思い切って休暇をとるべきか否か、それ自体が私の手に余る難題だった。
医者に通ったけれど
医者に通っても「ややマシか」と思える日が極めて稀にある程度で、全体的に回復している感じが全くしなかった。そもそも「気のせい」と片付けられ混乱を深めるなど逆効果だったりもした。(そういうふうにして正しい把握が遅れる)
辛抱して通った所もあったものの、けっきょく負担がまさっていると判断し行くのをやめた。
現在
いろいろを経た今、完全に回復したとは言えないながらも、かなり落ち着いている。振り返ると、とくに初期などは回復と逆方向に突っ走ったりなどしてまったくヒドかった。相当な遠回りをしたものだ。
現実だとは信じられないくらいに孤独でつらい日々もあったが、結局どんな時も「いかに自分の道を歩むか」に尽きる、という大きな、しかし当たり前のことを学べたことは良かったと思う。
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