2013年8月19日月曜日

ヴィパッサナー瞑想についての私的解釈 1

 

身体に影響をうける心


うつ病が発症してから何年か経った頃。
私はとらえどころの無いメンタルの崩れに翻弄され、自我を保つのに精一杯な日々を送っていた。
ネガティブな思考をスルーするコツは覚えつつあった。しかし何かをきっかけに、いつの間にか心のバランスを崩し、なんとか持ちなおし、また崩し、の繰り返し。焦りは禁物と自分に言い聞かせてはいたが、一体いつになったら抜け出せるのか、毎日不安で仕方がなかった。


そんなある日、ふと次のようなことに気がついた。
「同じような体勢をしたあとのメンタルの崩れ方が、毎回似通っている」
身体の扱い方とメンタルの崩れとの間に、なにか関連性がある気がしたのだ。「体勢」や「身体に触れるものの硬さのちがい」などと体調の関連に思いあたるふしがあった。重要なヒントに突き当たった予感がした。

それから、メンタルの崩れに繋がる身体の使い方を発見したらメモをし、以降そのやり方をしないようにできる限り心がけた。体調はあいかわらず不安定ながら、少しずつ身体面への注目を始めたわけである。
それから、果たして私の体調は確かなペースで回復していったのだった。劇的とは言えないまでも、その効果は少なくとも心理学を学んだり医者に通うよりも遥かに高い確実性・再現性を持っていた。
コンディションに翻弄され一喜一憂しながらヨタヨタ歩いていた私が、初めて自主的に管理・検証できる要素を得て一歩ずつ歩み始めたのだ。
そしてその手応えは、私を精神的にも少しずつ前向きにさせていった。


身体で心を統制する


私は身体のあちこちの痛みにも悩んでいて、それらのことは「心が治れば自然に収まるだろう」くらいに考えていた。
しかし、身体は病気に振り回されるものではなく、症状を管理するために起点として活用すべきものだったのである。
コペルニクス的転回とも言うべき、まさに発想の転換であった。


さて、そんなわけで「メンタルに影響する身体の使い方」を探し始めわけだが、その結果わかったのは、驚くべきことに「力むこと全てがNG」という事実であった。
例として、

①筋力系
 ・長時間イスに座り、疲れてきても腰や背中の筋肉を使い続ける
 ・長時間歩いて、疲れてきても足を休ませない
 ・無理な筋トレ
②圧迫系
 ・机にヒジや二の腕を長時間つく
 ・イスの座面にももの裏が長時間あたる
 ・きつい靴や服、ネクタイなどを長時間身に付ける
③その他
 ・体のどこかの関節を曲げてスジが伸び続ける
 ・満腹
 ・ケガをしてその痛みに耐える
 ・長時間息を止める
 ・飲酒し興奮する

などなど。
言ってしまえば「脱力以外すべて」であり、もちろん上記以外にも無限に近くあるだろう。

生活パターンは人それぞれなので、決まったものを覚えこむ必要はない。とにかくあらゆる身体的活動を、力み(疲労)を感じた時点で切り上げる、もしくはなるべく力まない体勢・やり方に変える
腕も、足も、胴体も、骨も、筋も、もっと内部も。

それができれば、体調は悪化しにくくなる。
活の中では限界はあろうが、とにかくできる限り身体にかかる無理を少なくするようにすることだ。
そして、そのように身体面に気を配り続けること自体が良いのである。これが大切なことだ。
所謂「マインドフルネス」寄りの過ごし方となる。


「心の病」


うつ病などは「心の病」と称されること多いが、心だけの病気というものはない。
この呼び方が、身体面へのアプローチを盲点にしている。病気になる前は当たり前だった身体操作が、うつ病下ではコンディションを狂乱させる要因となるのである。恐ろしいことだと思う。
心の病気を治すには、敢えて身体から入るべきというのが真実なのだ。

心の在りようは、外から眺めていても必ず限界につき当たる。またどんなに「いい言葉」も、その効果は一過性のものだ。それらの限界を突破するのは、身体感覚へのアプローチだけだと思っている。


ヴィパッサナー瞑想との出会い


上記のような時期を経てから、今から半年ほど前にヴィパッサナー瞑想に出会った。身体面に注目する体系を見て、私は瞬時にその有効性を確信した。
もっと早くに出会いたかったが、過去の私には理解できなかっただろう。

 

ともかく、心を操縦するためのハンドルは身体にある


そう確信している。




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