心の有り様は、構造がすべて。
人間の心というのは、何もなければ本来、軽やかで明るいものだ。
その方が自己の生命にとって好都合だからである。
悩みごとが少なく、より楽しいことが多いほど、「私」という生命は力強さを得て未来に向かって進む(繁栄する)。
極力、人生を楽しもうとするのが、本来の心の姿であるはずだ。
よって心が暗いのは、本来の状態からみればどこか歪んでいるはずなのだ。
理屈もなにもない。
うしろ向きな“雑念”は心の歪みから自動的に生じてしまうものであり、理性で統制するものではない。
自分を嫌わずに心を正しい構造に直せばよいだけなのである。
構造の「歪み」を取る
心の「歪み」は、どのように形成されるのだろうか。
私の経験では、心は考え事をしながら身体を使うことで歪む。
そしてその時に使われていた身体の部分の感覚を思い起こしてやることで、その「歪み」は解消していくことができる(→前回の記事「ヴィパッサナー瞑想の私的解釈(2)」)。
「歪み」は有限
ところで、注目すべきは、心は均一に濁ったりするものではないということ。
「心」や「性格」というのは、その人の「外界への反応」のうちの「特徴的ないくつか」を自他が把握したものにすぎない。
どんな変わった人にも、良くも悪くもないところ、気に留めていないまともな部分などもたくさんある。
おかしいところは、一部なのである。
問題は有限なのだ。
希望を持ってそれらを一つずつ直していけばいい。
有限とはいえ。
しかしながら、自分の心にどんな歪みがあり、どの順序で直していくべきかといのはちょっと分からないものだ。
したがって、ハズレも覚悟で全身をシラミ潰しに整えていくことになる。
それが、瞑想で「全身の感覚を感じよ」と指導される背景とも関連してくると思う。
理論上は各人ごとの無駄がないルートが存在するだろうが、それを始めに見出すのは聖人でさえムリだろう。
地道に試していくしかない。
実際にやってみると、かなり強力な歪みが他のルートを通った後にはあっけなく解消されたり、進歩していることに全く気づけなかったり、その道のりは予測しづらい。
なので、同じところを何度も通ってみたりする必要もあるだろう。
楽になる日が来ることを信じて、とにかく根気よく続ける。
それが何よりも必要なことである。
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